連日の残業が続き、今日子の心身はすっかりすり減っていた。
溜まりに溜まった受信トレイ、終わりの見えない資料作成。「もう限界かもしれない」という言葉が、喉の奥で何度も形を作っては消えた。
ため息をひとつこぼしながら京急・日ノ出町駅の改札を抜けると、ふわりと甘い匂いが鼻をかすめた。花の匂いだ、と気づくのに少し間があった。
「今日子! こっちこっち!」 声のする方を振り返ると、幼馴染の健太が人波の中で大きく手を振っていた。
高校を卒業してから、もう数年が経つ。髪型は少し変わったけれど、照れ隠しにぶっきらぼうな言い方をするところは、昔のままだった。
「ごめん、待たせた?」
「全然。それより——なんか、顔色悪いぞ。ちゃんと寝てるか?」 余計なお世話だと思う気持ちと、素直に嬉しい気持ちが半々で、今日子の口元が自然とほどけた。
二人は駅を出て、大岡川沿いのプロムナードへと歩きだした。
目の前に広がる光景に、今日子は思わず足を止めた。 川の両岸に沿ってどこまでも続く満開の桜並木。夕暮れに染まる空の下、提灯のやわらかな明かりが花びらをほんのりと照らし出し、水面にはその灯りがゆらゆらと映り込んでいる。
「うわあ……きれい」 言葉にしてしまうと陳腐に聞こえるほど、美しい景色だった。
「だろ? 今年はちょうど見頃だって聞いてさ。最近お前、忙しそうだったから、少しは気晴らしになるかなと思って」
日ノ出町から黄金町へと続く川沿いの道には、いくつもの屋台が並んでいた。 ソースの焦げる香ばしい匂い、唐揚げを揚げる軽快な音、どこかから漂ってくるリンゴ飴の甘い香り。祭りの空気というのは不思議なもので、嗅いだだけで体の中の何かがほぐれていくような気がした。
「あ、たこ焼き! ねえ、昔ね、近所のお祭りで健太が買ったそばから落として、大泣きしてたよね」
「おい、何年前の話してんだよ」 健太が苦い顔をするのを見て、今日子はくすくすと笑った。
「今日は俺が奢る。好きなもん食べな」
たこ焼きに焼きそば、それに屋台で売っていた温かい甘酒。紙コップを両手で包みながら、二人はゆっくりと桜の下を歩いた。くだらない学生時代の話、共通の友人の近況、たわいもない言葉のやりとり。笑い合ううちに、今日子の肩に乗っていた重たいものが、少しずつ、少しずつ溶けていくような気がした。
「……なんか、久しぶりにこんなに笑ったかも」 思わずこぼれた言葉に、健太が少し間を置いた。
「昔からそうだよな、お前は。頑張りすぎるところがある。たまにはこうやって気を抜かないと、体が持たないぞ。……俺でよかったら、いつでも付き合うからさ」 照れくさそうに視線をそらしながら言う横顔を見て、今日子は何も言えないまま、ただ小さくうなずいた。それだけで、十分だった。
黄金町に近づく頃には、すっかり夜の帳が下りていた。川面には、ライトアップされた夜桜が揺れている。冷え込むかと思っていた夜風は、どういうわけか今夜は心地よく、二人の間をそっと吹き抜けていった。
「ありがとう、健太。明日から、また頑張れそうな気がする」
今日子がそう言うと、健太は「そりゃよかった」とだけ答えて、また照れたように前を向いた。
満開の桜が、ゆっくりと花びらを散らしていた。川の上を舞うそれは、提灯の光の中でほのかにピンク色に輝きながら、二人の足元へと降り積もっていった。
