「一度、ちゃんと聞くべきだと思う」
塚田は、机の上に置いた勤務表から目を上げた。
「現場の人数が足りないって声が出てる。休憩も取りづらい。このままじゃ続かないって」
「じゃあ増やすのか。利益も出ていない現場に、もう一人?」
「増やすかどうかを決める前に、話を聞こうって言ってるんだよ」
その落ち着いた言い方が、妙に癇に障った。
机には、来月の資金繰り表が広がっていた。人件費、仕入れ、求人費。どれも待ってはくれない。取引先に値上げを頼めば渋られ、従業員には時給を上げてほしいと言われる。その間でどうにか帳尻を合わせている。
「現場の希望を全部聞いていたら、会社はもたない。あいつらに経営の何がわかる」
言った途端、塚田の顔つきが変わった。
「その言い方はないだろ」
「事実だろ。給料日に金が足りなかったら、誰が用意するんだ。客に頭を下げるのは誰だ。最後に責任を負うのは、俺たちなんだぞ」
「わかってるよ。俺だって経営者だ」
塚田の声も強くなった。
「でも、朝の現場で客に頭を下げてるのは、あの人たちだろ。俺たちが決めた人数で回らなくても、そこで何とかしてる。その話まで聞かなくなったら、俺たちは何を見て判断するんだよ」
「お前はいいよな。そうやって従業員の味方をしてればいいんだから」
口にしてから、言い過ぎたと思った。
けれど、引き返せなかった。
塚田はしばらく俺を見ていた。怒鳴り返されるほうが、まだよかった。
「……俺が、お前の敵になったことがあるか」
俺は答えず、車の鍵をつかんだ。
*
首都高を横浜へ向かった。
街灯がフロントガラスの上を流れていく。ラジオをつけたが、人の声が煩わしくて、すぐに消した。
塚田の言葉だけが、車内に残っていた。
大さん橋に着くと、海から湿った風が吹いてきた。
みなとみらいの灯りが、黒い水面に細く揺れていた。遠くのビルも、海に映ると輪郭を失う。しばらく見ているうちに、握りしめていた手がほどけていた。
塚田は、なぜあんなことを言ったのか。
俺は、なぜあんなことを言ってしまったのか。
あいつは利益を軽く考えているわけじゃない。資金が足りなかった月も、取引先との契約が切れた日も、隣にいた。俺が電話に出られなくなった晩、代わりに客先へ謝りに行ったのも塚田だった。
そんなことは、わかっていたはずだった。
手すりに肘をつき、暗い海を見た。
従業員の話を聞けば、何かを変えなければならなくなる。それが怖かったのかもしれない。
もう十分、やっている。
これ以上、俺に何ができる。
そう言いたかった相手は、従業員ではなく、塚田だった気がした。
「少し、しんどいんだよ」
誰もいない海に向かって言ってみた。
思っていたより、小さな声だった。
*
車に戻り、少し目を閉じた。
次に外を見たとき、空の端が白み始めていた。コンビニでコーヒーを買い、ふたの飲み口から一口すする。熱さに顔をしかめると、自分がひどく疲れていることに、ようやく気づいた。
夜の間、あんなに正しかったはずの言い分が、朝の光の中では少しずつ形を変えていた。
元町へ車を走らせ、堀川沿いの路上パーキングに停めた。
商店街の店は、まだどこも開いていなかった。人通りもない。閉じたガラス戸に、寝不足の男がひとり映る。肩に力が入ったままの自分を見て、少し笑った。
行き先も決めず、脇道へ折れた。
代官坂を上りかけたところで、香ばしい匂いがした。
小さな店に灯りがともっていた。
Chai&Saffron MOTOMACHI。
入口のメニューには、モーニングの文字がある。
ドアを開けると、女性のスタッフが顔を上げた。
「おはようございます」
よく通る、やわらかい声だった。
「一人なんですけど」
「どうぞ。お好きなお席へ」
窓際に腰を下ろした。白い壁に朝の光が差し、木のテーブルに淡い影を落としている。外の蒸し暑さが、扉一枚隔てるだけで遠くなった。
フムスとフェヌグリークの葉のチャパティ、それにアイスチャイを頼んだ。
ほどなく運ばれてきたチャパティには、小さな焼き色がついていた。ちぎると、練り込まれた葉の香りが、湯気とともに立ち上った。
「フムスをたっぷりつけて、召し上がってみてください」
女性が笑顔で言った。
言われた通りにして口へ運ぶ。香ばしさのあとから、ひよこ豆のなめらかな味わいが広がった。
空腹だった。
昨夜、夕飯を食べていなかったことを、そのとき思い出した。
ピクルスをかじると、思いがけない酸味に目が覚めた。オリーブを一粒食べ、またチャパティをちぎる。
窓の外では、濡れた坂道が光っていた。台風と台風の間にのぞいた陽射しは、もう夏のように眩しい。
アイスチャイのグラスを持ち上げる。氷が軽く鳴った。
冷たさが喉を通り、そのあとに控えめな甘さとスパイスの香りが残る。
うまいな、と思った。
ただ、それだけのことが、久しぶりのようだった。
女性は客が少ないからといって話しかけ続けることもなく、俺が水のグラスに手を伸ばしたころ、静かに水を足してくれた。
「ありがとうございます」
自然に言葉が出た。
その人の名前も知らない。何時に起き、どんな気持ちで店へ来たのかも知らない。それでも、今朝の俺は、この人の仕事に助けられている。
ふと、うちの現場で働く人たちの顔が浮かんだ。
忙しい朝にも客を迎え、食器を下げ、次の人のためにテーブルを拭く。その一つひとつが、誰かの朝を少しよくしているのだろう。
俺が昨夜、「あいつら」と呼んだ人たちだった。
テーブルに置いたスマートフォンを、手に取った。
塚田とのやり取りを開く。昨夜、自分が送った業務連絡が最後に残っていた。
〈昨日は言い過ぎた。悪かった〉
そこまで打って、指が止まった。
謝るだけでは、また同じことになる。
〈現場の話、一緒に聞こう。そのうえで、どうすれば続けられるか考えたい。俺のほうも、少し聞いてほしいことがある〉
送信して、スマートフォンを伏せた。
胸のあたりが落ち着かなかった。アイスチャイを飲む。氷はずいぶん小さくなっていた。
食後のマンゴーヨーグルトを食べ終えるころ、返信が来た。
〈俺も言い方がきつかった。悪かった〉
少し間を置いて、もう一通。
〈今どこだ。飯は食ったか〉
画面が、ぼやけた。
あれだけ言い合った翌朝に、こいつは俺の飯を心配している。
会社を始めたばかりのころも、そうだった。仕事が取れず、狭い事務所で二人して黙り込んだ夜、塚田が突然「飯にしよう」と立ち上がった。解決したことなど何もなかった。それでも、二人で安い定食を食べているうちに、翌日もう一軒、営業に行こうという話になった。
俺は長いこと、あいつに助けられていた。
〈食った。うまい朝飯だった〉
そう返し、続けて打った。
〈これから戻る。もう一度、じっくり話そう〉
*
会計を済ませると、女性が「ありがとうございました」と笑った。
「ごちそうさまでした」
少し迷って、付け加えた。
「おかげで、いい朝になりました」
女性は一瞬、驚いた顔をして、それから嬉しそうに笑った。
外へ出ると、坂道を風が抜けていった。
元町の商店街では、シャッターが上がり始めていた。店先を掃く人がいて、荷物を運び込む人がいた。さっきまで眠っていた街が、人の手で、少しずつ今日の顔になっていく。
車に乗り、オフィスまでの道を表示した。
帰ったら、まず顔を見て謝ろう。
数字も見せよう。不安も隠さず話そう。そして、塚田が話している間は、最後まで聞こう。
助手席に置いたスマートフォンが鳴った。
〈待ってる。お前の分もコーヒー淹れとく〉
俺は画面を見たまま、しばらく動けなかった。
会社をつくったばかりのころ、机は一つしかなかった。 その両側に、俺と塚田は椅子を置いた。
いつから、向かいに座るあいつを、立ちはだかる相手のように思っていたのだろう。
〈ありがとう。すぐ戻る〉
今度は、迷わず送れた。
朝の光がフロントガラスいっぱいに広がっていた。
俺はエンジンをかけた。
あの机の、向かいの席へ帰ろう。
