昭和が息づく「豊年」の城 渡田新町の通りから店に入ると、そこには時間が止まったかのような、温かくも懐かしい風景が広がっていた。 まず目に飛び込んでくるのは、使い込まれてなお艶を放つ深紅のカウンターだ。数えきれないほどの丼が置かれ、数えきれないほどの肘が突かれたその赤は、豊年と文子が歩んできた情熱の象徴でもあった。 壁には、年月を経て少し端が丸まった手書きのメニューが並ぶ。 「広東麺」「肉そば」「餃子」……。 文子が丁寧に書き記したその文字は、実直な二人の人柄を表すように、力強く、それでいてどこか優しい。 変わらないリズム 店の隅では、年季の入ったコカ・コーラの冷蔵庫が、低い唸り声を上げながら瓶を冷やしている。客が自分で栓を抜き、シュワッという音が響く。それが「豊年」の昼下がりの合図だった。 豊年が中華鍋を叩く小気味よい音が店内に響き渡ると、文子はレトロなレジの前で、慣れた手つきで伝票を整理する。「チンッ」と鳴るベルの音は、今日という一日が積み重なっていく喜びの音でもあった。 「お父さん、広東麺上がりね」 「おう。肉そば、今いくぞ」 カウンター越しに差し出される、餡のたっぷりかかった広東麺。 赤いテーブルに置かれた瞬間、琥珀色のスープが湯気と共に踊る。 その横で、文子が「はい、どうぞ」と差し出すコップ一杯の水。 赤いカウンターと、手書きの文字、そして冷蔵庫の唸り。そのすべてが、豊年の料理を彩る最高の調味料だった。 街の灯りとして 夜、店の明かりが渡田新町の路面を照らす。 豊年が鍋を洗う水の音と、文子がレジを締める音。 「今日もお疲れ様」 言葉にしなくても、二人の視線が合えばそれで十分だった。 店を閉めた今でも、あの赤いカウンターに座れば、熱々の肉そばが運ばれてくるような気がする。 コカ・コーラの冷えた瓶の感触、レジの音、そして壁に貼られた文子の文字。 そのすべてが、今も渡田新町の人々の心の中に、消えない灯火として残っている。
