十二月の榛東村。榛名山の稜線が灰色の空に沈み、赤城おろしが枯れ葉を巻き上げる季節。
フリーカメラマンの桐生健一(きりゅう・けんいち)は、榛名山麓の冬枯れの雑木林をよろよろと歩いていた。群馬県の観光協会から依頼された撮影の帰り道、伊香保の旅館に向かうタクシーの中で居眠りし、気がつけば財布がない。公共交通はタクシーしかないこの山あいでは、金がなければ文字どおり身動きが取れなかった。
空腹で膝が笑い始めたとき、木立の向こうに、丸太を組んだログハウスの屋根が見えた。近づくと、風に乗って焼きたてのパンの香りがした。その甘く、どこか素朴な匂いに導かれるように、健一はふらふらと店の前に辿り着き――そのまま、テラス席の椅子に崩れ落ちた。
「おいおい、兄ちゃん、大丈夫かい」
声をかけたのは、日に焼けた顔にくしゃっとした笑い皺を刻んだ五十がらみの男だった。鈴村源蔵(すずむら・げんぞう)。「地球屋パン工房」のオーナーにして、この榛東村では知らぬ者のない"町おこしの親分"である。隣接する「地球屋」本館では七千個を超えるつるし飾りでギネス世界記録を持ち、バターファクトリーに和カフェまで手がける、地元きっての風雲児だ。
事情を聞いた源蔵は、腕を組んで天井を見上げ、それから破顔した。
「しゃあないなぁ。住み込みで手伝うなら、まかないくらい食わせてやるよ」
こうして健一は、工房の二階——小麦粉の袋と酵母の瓶に囲まれた屋根裏部屋に転がり込んだ。窓からは冬枯れの雑木林と、遠く赤城山の稜線が一望できた。
翌朝。まだ夜が明けきらぬ午前四時。階下から、硬い何かを叩きつけるような音で健一は目を覚ました。
降りてゆくと、粉まみれのエプロン姿の女が、作業台の上で生地を力いっぱい捏ねていた。
鈴村夏代(すずむら・なつよ)、二十六歳。源蔵の一人娘にして、この地球屋パン工房を実質的に取り仕切るパン職人である。
「あんた誰」
夏代は生地から手を離さずに、横目で健一を睨んだ。
「あー、昨日お父さんに……」
「聞いてないわよそんな話。パパったら、また勝手に……」
夏代は小さく舌打ちしたが、すぐに視線を生地に戻した。彼女の指先が触れているのは、ただの小麦粉の塊ではない。北海道産の国産小麦に、自家培養の天然酵母。添加物は一切使わない。発酵促進剤も、乳化剤も、防腐剤も、着色料も、安定剤も。マーガリンやショートニングの代わりにフレッシュバターとオリーブオイルだけを使う。牧草で育った鶏の卵だけを選ぶ。それが、この工房の絶対の掟だった。
「そこに突っ立ってないで、せめて窯に薪をくべてよ。……って、ちょっと! 粉の袋はそこに置かないでって言ったでしょ!」
「うるさいな! 男が細かいこと気にするか!」
健一が手に取ったのは、竹炭の粉が入った袋だった。夏代がそれをひったくる。
「これは竹炭食パン用の大事な粉なの! 湿気を吸ったらおしまいなんだから!」
竹炭食パン。一斤四百八十円。見た目は真っ黒で、知らない人間はぎょっとする。しかし、竹炭のデトックス効果と、もっちりとした天然酵母の食感が合わさった地球屋の看板商品だ。テイクアウトで箱買いしていく常連も少なくない。
「だいたい、なんだこの真っ黒な食パンは! 炭食わせる気か!」
「それは地球屋名物の『竹炭食パン』よ! あんたみたいな味オンチにはこの美味しさが分からないわね!」
工房に、朝日よりも早く嵐が吹き荒れた。
地球屋パン工房には、月に一度、東京から「師匠」がやってくる。
廣瀬満雄(ひろせ・みつお)。かつて杉並区西荻窪で『リスドォル・ミツ』という伝説的なパン屋を営み、「今、パンが危ない。」をはじめ数々の著書を世に出した、無添加パンの求道者である。多くの常連客に惜しまれながら店を閉じた廣瀬が、自らの技術と志を託した唯一の工房が、ここだった。
その日、廣瀬が工房を訪れると、テラス席で健一がぼんやりコーヒーを飲んでいた。
「君が噂の居候かい」
「……はぁ」
廣瀬は健一の手を見た。カメラのグリップで出来たタコ。長年シャッターを切り続けた指。
「いい手をしてるな。パン職人の手とは違うが……ものを作る人間の手だ」
その日の午後、廣瀬は夏代とスタッフたちに新作のビール酵母パンの技術指導をしていた。源蔵が独自に開発に取り組んできた酵母を、廣瀬の技術で製品に仕上げるのだ。健一は邪魔にならないよう隅でカメラを構えていたが、廣瀬が生地を伸ばす手つきの美しさに、思わずシャッターを切った。
パシャリ。
「……あ」
夏代が振り向いた。廣瀬は微笑んだ。
「撮ってくれたのかい。ありがとう。パンは生き物だから、その一瞬一瞬は二度と同じじゃない。記録してくれる人がいるのは、ありがたいことだよ」
その夜、健一は二階の部屋で撮った写真を見返していた。廣瀬の手。発酵する生地。窯の炎。そして——粉まみれの頬で真剣な眼差しを向ける夏代の横顔。
消去しようとして、指が止まった。
「ねえねえ、フーテンのおじちゃん、また夏代ねえちゃんに怒られてたでしょ」
毎週土曜日の午後になると、工房のテラス席に小さな嵐がやってくる。近所に住む小学四年生の野上真由美(のがみ・まゆみ)。おませで、口が達者で、地球屋のオリジナル焼きドーナツが大好物という少女だ。
「怒られてない。議論してたんだ」
「嘘ばっかり。さっき『この焼きカレーパン黒焦げじゃねえか!』って叫んでたの、テラスまで聞こえたよ」
「……あれは焼きカレーパンがもとから茶色いのを知らなかっただけだ」
健一は、真由美のためにカボチャのポタージュを温めてやりながら、苦い顔で弁解した。
真由美は地球屋の「孫」のような存在だった。両親が共働きで、学校が終わると自転車でここまで来て、宿題をしたり、源蔵に将棋を教わったり、夏代にパン作りを習ったりして過ごす。テラス席で採れたての地元野菜——一袋百円で店先に並ぶ新鮮な野菜を使ったサラダを頬張る姿は、常連客たちの目を細めさせた。
「ねえフーテンのおじちゃん。おじちゃんはいつまでここにいるの?」
「……さあな。財布が見つかるまでだろ」
「見つからなかったら?」
健一は答えなかった。真由美は焼きドーナツをもう一つ頬張りながら、小さな声で言った。
「あたし、おじちゃんがいてくれた方がいいな。夏代ねえちゃん、前よりよく笑うもん」
十二月も末に近づき、榛東村は本格的な冬に入った。赤城おろしが吾妻山の谷を吹き抜け、朝は工房の窓ガラスが凍りつく。
その夜、健一は二階で眠れずにいた。
階下で、かすかな物音がする。降りてみると、作業場の明かりがついていた。夏代が一人、窯の前にしゃがみこんでいる。
「……何やってんだ、こんな時間に」
「年末の注文が入ってるの。竹炭食パンとりんご入りぶどうパン、合わせて百五十斤。でも窯の温度が安定しなくて……」
冬の山は気温が急激に下がる。窯の温度管理が難しくなるのだ。夏代の手は赤く冷え切っていた。何時間ここにいたのか、目の下に隈ができている。
健一は何も言わず、厨房に入った。
業務用の冷蔵庫から、仕込んであったビーフシチューの鍋を取り出す。地球屋の看板メニューのひとつ。地元の野菜がごろごろ入った、素朴だが深い味わいのシチューだ。小鍋に移して温め直し、焼き上がったばかりのパンを横に添えた。地球屋名物の「つけパンセット」。
熱々の皿を、夏代の前に、無言で置いた。
「……食べる?」
「……うん」
夏代はシチューの皿を両手で包んだ。凍えた指先に、湯気が絡みつく。パンをちぎり、たっぷりのシチューに浸して、口に運ぶ。
「……おいしい」
小さな声だった。目の端が赤くなっていた。寒さのせいだけではないように、健一には見えた。
ストーブの炎がゆらめく工房で、向かい合って座る二人。外では赤城おろしが窓を揺らし、遠くの杉林がざわざわと鳴っていた。
「……ありがと」
夏代がぼそりと言った。
「何が」
「べつに。……パン、おかわり」
「自分で焼いたやつだろ、自分で取れよ」
「手が冷たいの! 持ってきてよ!」
「はいはい……」
健一は立ち上がりざま、棚に置いてあったカメラをそっと手に取った。窯の余熱で頬を赤くし、シチューを頬張る夏代の横顔。粉で白くなったエプロン、額に張り付いた後れ毛、口元に浮かんだ小さな笑み。
パシャリ。
「……撮ったでしょ今」
「撮ってない」
「嘘。シャッター音聞こえたわよ」
「空耳だ。風の音だろ」
「あんたねぇ……!」
また口喧嘩が始まる。でも、夏代の声は怒っているようで、どこか柔らかかった。
年が明け、一月。
健一の財布は結局見つからなかった。だが、彼はまだ地球屋パン工房にいた。
朝四時に起きて窯に火を入れ、粉を運び、テラス席を掃除し、仕込みを手伝い、常連客の応対をし、真由美の宿題を見てやり、源蔵とストーブの前で酒を酌み交わす。いつのまにか、健一は工房の風景の一部になっていた。
ある日の夕方、営業を終えた店内で、健一はパソコンに向かっていた。撮りためた写真を整理している。地球屋の春夏秋冬。テラスの新緑、夏の入道雲、秋の紅葉、冬の雪化粧。窯から立ち昇る湯気、こんがりと焼けたトマトカレーパンの断面、焼きドーナツに粉糖をふる夏代の指先、テラスで野菜を並べる源蔵の笑顔、ポタージュに頬を染める真由美。
「何これ」
いつのまにか後ろに立っていた夏代が、画面を覗き込んだ。
「……写真集、作ろうと思って」
「写真集?」
「ああ。タイトルは『地球屋パン工房——森の中のパン屋の一年』。観光協会に持ち込めば、榛東村の町おこしにも使えるだろ」
夏代は黙って画面をスクロールした。工房の日常が、温かな光の中に切り取られていた。自分がパンを捏ねる真剣な横顔も。シチューを頬張って泣きそうな顔をしている自分も。
「……あんたさ」
「ん?」
「財布、本当に見つからないの?」
「見つからないな」
「……見つかっても、いなくなったら困るんだけど」
「何? 今なんつった?」
「何でもない! 早く閉店作業手伝いなさいよフーテン!」
夏代はエプロンを翻して厨房に消えた。健一は、彼女が去った後の空気にふわりと残った小麦粉の香りの中で、しばらく立ち尽くしていた。
カメラのモニターには、最後に撮った一枚が映っていた。朝の光が差し込む工房で、テラス席の向こうに広がる榛名の山並みを背景に、源蔵と夏代と真由美が三人で笑っている写真。その隅に、健一自身の影が長く伸びていた。
血は繋がっていない。いがみ合ってばかりの日々だ。でも、焼きたてのパンの匂いと、ストーブの温もりと、口喧嘩の合間に見える不器用な笑顔の中に、確かな「家族」の輪郭が、少しずつ、少しずつ浮かび上がってきていた。
春が来れば、テラス席に花が咲く。源蔵が大きな声で「いらっしゃい!」と客を迎え、夏代が窯の前で唇を噛みながら新作のパンに挑み、真由美が焼きドーナツを頬張りながら駆け回る。
そしてたぶん、健一はその全部を、カメラ越しに見つめているのだろう。
この騒がしくて温かい、森の中のパン屋で。