平沼橋横町蕎麦噺(六十年の風をまとい)—**
横浜は平沼橋の袂《たもと》に、古くより「角平」と呼ばれる蕎麦屋がある。 夕立の名残りがまだ舗道に細く光を宿す黄昏どき、歳は六十を迎えた男が、少し湿り気を帯びた暖簾を静かに押し上げた。
暖簾の内から流れ出てくるのは、油と出汁《だし》とが溶け合った、腹の底に直接触れるような匂いである。 男はそれを胸いっぱいに吸い込み、知らず知らずのうちに肩の力を抜いた。
男の名は竹井宏樹《たけい・ひろき》。 人材派遣会社を立ち上げて三十余年。 若い頃の勢い任せの働き方も、五十を過ぎた頃の負けん気も、いつの間にか角が取れ、いまの彼には円熟した静けさが宿っていた。
しかし、その静けさの底には、長年「人」を扱ってきた者だけが知る、鈍く重たい疲労が沈殿している。 人を送り出し、人を受け入れさせ、時に人生の分かれ目に立ち会う。 六十という年齢は、過ぎた年月の重みを、そのまま背に負わせるものだ。
そんな竹井が、ほとんど儀式のように通う場所が、この角平であった。
席へ向かおうとした、その刹那《せつな》。 背後から、夜の花を思わせる甘さと、涼を含んだ香りがふわりと届いた。
「まぁ、竹井さんじゃございませんの。」
振り向くと、白地に淡紫の絽《ろ》を纏い、髪を夜会巻に整えた女が立っている。 野毛界隈で名を知らぬ者のないクラブ「燈《あかり》」のママ、小暮ゆり江であった。
「これは驚いた。こんな所で会うとは。」
「角平のつけ天とカツ丼が、どうしても恋しくなる夜があるのよ。」
そう言って、ゆり江は少し悪戯《いたずら》めいた笑みを浮かべた。 六十歳を迎えた竹井の胸に、その笑みは若い頃とは違う深さで沁み入った。
「せっかくですし、ご一緒してもよろしいかしら?」 「こちらこそ。」
二人は相席となり、年季の入った木の卓に向き合った。
ほどなくして、湯気を含んだ盆が運ばれてくる。 まずは、角平名物のつけ天である。
蕎麦は別皿に盛られ、冷ややかに水気をまとい、一本一本が張りを保ったまま整えられている。 対して、土色の丼に張られたつけ汁は湯気を立て、その中には一本の大きな海老天が、堂々と身を横たえていた。
衣はすでにつゆを含み、白から淡い飴色へと変わりながらも、芯は失われていない。 鰹の香と油の甘みが混じり合い、いかにも角平らしい匂いが立ちのぼる。
竹井は蕎麦をひとすじ取り、温かいつゆへと静かに沈めた。 蕎麦の冷と、つゆの温とが舌の上で交わる瞬間、思わず小さく息が漏れる。
続いて、海老天の端を箸で持ち上げる。 衣はしっとりとしながらも崩れず、つゆを纏ったまま口へ運ばれた。
「……これだ。」
噛むと、海老の身がふくよかに応え、出汁と油とが渾然一体となって広がる。 揚げたての勢いではなく、つゆに抱かれて完成する天ぷら。 それが角平のつけ天であった。
「六十になってみると、こういう味がいよいよ沁みる。」 「人間、歳を重ねるほど余計なものを求めなくなるのよ。」 ゆり江は蕎麦を静かにすすりながら言った。 「味も、人付き合いも。」
やがて、もう一つの主役が運ばれてくる。 角平のカツ丼である。
蓋を取ると、甘辛い割下と卵の匂いが一気に立ちのぼり、厚みのある豚カツが黄金色の卵に半ば抱かれている。 白米の熱が、丼の底からじんわりと伝わってくる。
竹井は箸を入れ、ひと切れ口に運んだ。 衣は出汁を吸いながらも芯を保ち、肉は柔らかく、噛むたびに旨味が静かに広がる。
「……これは反則だな。」 「でしょう?」 ゆり江は小さく笑った。 「角平のカツ丼は、人生を肯定してくれる味がするの。」
人材派遣という仕事は、六十になっても楽にはならない。 むしろ、スタッフの人生が自分の年齢に近づくほど、決断の重みは増す。 だが、この丼を前にしている間だけは、そうした責任が箸の先から溶け落ちていくようであった。
「……この歳になって、誰かと蕎麦を手繰り、カツ丼を分け合いながら話す時間が、こんなに贅沢だとはね。」
ゆり江は静かに微笑した。 その微笑には、夜の灯りと人生の陰影が、ほどよく溶け合っていた。
店を出ると、夕焼けの名残が路地を細く染め、二人の影を長く伸ばしていた。 六十年という長い道のりの果てで、竹井はようやく気づいた。
人生には、まだ誰かと同じ卓につき、同じ味を分け合う余白が残されている——と。
その影が寄り添い、静かに揺れたとき。 人と人を結ぶ仕事をしてきた男が、自らもまた“結ばれる側”に立っていることを、しみじみと悟ったのであった。
