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椿
成瀬焼肉

春、娘が羽ばたく時 ー椿にてー

by 悟浄2026年3月28日9

桜の便りがテレビの隅で流れていた三月の末。

「ねえ、お父さん、今度の日曜、久しぶりにみんなでご飯どう?」

娘の萌の言葉に、孝之は新聞から目を上げた。妻の美津代もキッチンからこちらを覗いている。

「……ああ、いいけど」

曖昧な返事。萌は少しだけ唇を尖らせて、スマホに視線を落とした。

三日後。萌が選んだのは、成瀬駅のすぐそばにある「椿」という店だった。一九八八年創業の老舗。看板には「焼肉・もつ鍋」とある。

「掘りごたつがあるから、お父さんの足も楽でしょ」

萌の気遣いに、孝之は小さく頷いた。最近、膝が痛むとこぼしていたことを覚えていたのだ。

テーブルに着くと、萌は手際よく注文を始めた。牛タン、ハラミ、そしてもつ鍋。

「お父さん、もつ鍋好きでしょ?」

「……ああ」

孝之は視線を逸らした。先月、萌との間で小さな諍いがあった。就職先の話だ。堅実な会社を勧めた孝之と、設立間もないベンチャーに飛び込みたいと言う萌。どちらも譲らず、萌が自分の部屋に引っ込んで以来、ろくに口もきいていなかった。

沈黙が重い。

美津代が箸を取り、網に肉を並べ始めた。

「久しぶりね、こうして三人で」

じゅう、と肉の焼ける音が膨らむ。香ばしい匂いが漂ってくる。

「お父さん、焼けたよ」

萌がハラミを孝之の皿に置いた。孝之はそれを無言で口に運ぶ。

——柔らかい。

肉の旨味が舌に広がる。孝之はふと、萌が幼い頃を思い出した。初めて焼肉屋に連れて行った時、彼女は苦手な野菜を無理やり食べさせられて泣いていた。それを孝之が「無理するな」と窘めたのだった。

「……ごめんな」

孝之の口から、思いがけない言葉がこぼれた。

萌が箸を止める。

「就職のこと、お前の気持ちを聞かずに自分の考えばかり押し付けた」

「お父さん……」

「心配なんだよ。立ち上げたばかりの会社なんて、いつどうなるかわからん。お前が苦労するんじゃないかと思うと……」

萌は少し目を伏せて、それから小さく笑った。

「わかってるよ。心配してくれてるってこと、ちゃんとわかってる」

もつ鍋が運ばれてきた。熱々の鍋から湯気が立ち上る。白滝、キャベツ、にんじん。そしてぷりぷりの牛もつ。

「春だねえ」美津代が呟いた。「桜、どこか見に行く?」

「来週、井の頭公園どう?」萌が言う。「お父さんも、歩ける?」

「……行くよ」

孝之は鍋の具を自分の器によそい、萌の器にも取り分けた。

「食え。冷めるぞ」

萌は「ありがとう」と言って、鍋の具を口に運んだ。

窓の外、駅のホームを行き交う人々の列。春の夕暮れはまだ明るい。

三人の間のわだかまりは、熱い鍋と焼肉の湯気に溶かされて、夜の闇へと消えていった。

——椿で食べた春の味は、どこか懐かしくて、優しかった。

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コメント (1件)

ゆうき(2026/03/28)

親子のわだかまりが食事を通じて解けていく描写にジーンときました。焼肉で仲直り、いいですよね。春らしい温かいお話、ありがとうございます。

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