桜の便りがテレビの隅で流れていた三月の末。
「ねえ、お父さん、今度の日曜、久しぶりにみんなでご飯どう?」
娘の萌の言葉に、孝之は新聞から目を上げた。妻の美津代もキッチンからこちらを覗いている。
「……ああ、いいけど」
曖昧な返事。萌は少しだけ唇を尖らせて、スマホに視線を落とした。
三日後。萌が選んだのは、成瀬駅のすぐそばにある「椿」という店だった。一九八八年創業の老舗。看板には「焼肉・もつ鍋」とある。
「掘りごたつがあるから、お父さんの足も楽でしょ」
萌の気遣いに、孝之は小さく頷いた。最近、膝が痛むとこぼしていたことを覚えていたのだ。
テーブルに着くと、萌は手際よく注文を始めた。牛タン、ハラミ、そしてもつ鍋。
「お父さん、もつ鍋好きでしょ?」
「……ああ」
孝之は視線を逸らした。先月、萌との間で小さな諍いがあった。就職先の話だ。堅実な会社を勧めた孝之と、設立間もないベンチャーに飛び込みたいと言う萌。どちらも譲らず、萌が自分の部屋に引っ込んで以来、ろくに口もきいていなかった。
沈黙が重い。
美津代が箸を取り、網に肉を並べ始めた。
「久しぶりね、こうして三人で」
じゅう、と肉の焼ける音が膨らむ。香ばしい匂いが漂ってくる。
「お父さん、焼けたよ」
萌がハラミを孝之の皿に置いた。孝之はそれを無言で口に運ぶ。
——柔らかい。
肉の旨味が舌に広がる。孝之はふと、萌が幼い頃を思い出した。初めて焼肉屋に連れて行った時、彼女は苦手な野菜を無理やり食べさせられて泣いていた。それを孝之が「無理するな」と窘めたのだった。
「……ごめんな」
孝之の口から、思いがけない言葉がこぼれた。
萌が箸を止める。
「就職のこと、お前の気持ちを聞かずに自分の考えばかり押し付けた」
「お父さん……」
「心配なんだよ。立ち上げたばかりの会社なんて、いつどうなるかわからん。お前が苦労するんじゃないかと思うと……」
萌は少し目を伏せて、それから小さく笑った。
「わかってるよ。心配してくれてるってこと、ちゃんとわかってる」
もつ鍋が運ばれてきた。熱々の鍋から湯気が立ち上る。白滝、キャベツ、にんじん。そしてぷりぷりの牛もつ。
「春だねえ」美津代が呟いた。「桜、どこか見に行く?」
「来週、井の頭公園どう?」萌が言う。「お父さんも、歩ける?」
「……行くよ」
孝之は鍋の具を自分の器によそい、萌の器にも取り分けた。
「食え。冷めるぞ」
萌は「ありがとう」と言って、鍋の具を口に運んだ。
窓の外、駅のホームを行き交う人々の列。春の夕暮れはまだ明るい。
三人の間のわだかまりは、熱い鍋と焼肉の湯気に溶かされて、夜の闇へと消えていった。
——椿で食べた春の味は、どこか懐かしくて、優しかった。
