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靖國八千代食堂
東京 九段下食堂

平和の味、受け継ぐ心 ~靖國八千代食堂にて~

by 匿名2026年2月3日

五月晴れの空が広がる東京、九段下。 新緑が眩しい靖國神社の参道を、健太の手を引いて歩く。 「お父さん、お腹すいたよー」 小学4年生になった健太が、少し拗ねたような声を上げた。無理もない。今日は朝から歴史の勉強も兼ねて、広い境内を歩き回ったのだから。 「よし、じゃあお昼にしようか。ここでおいしい丼が食べられるんだよ」 私は健太を連れて、神社の境内にある休憩所兼食堂「靖國八千代食堂」へと向かった。

店内は、昭和の懐かしさを感じさせる落ち着いた雰囲気だった。古い写真やお土産が並び、ここだけ時間がゆっくり流れているようだ。 私たちは木のテーブル席に座り、私は迷わず「特攻の母 鳥濱トメの玉子丼」を注文した。健太も「僕もそれ!」と真似をする。

「ねえお父さん、なんで『特攻の母』っていうの?」 メニューの文字を指差しながら、健太が不思議そうに尋ねた。 私は少し背筋を伸ばし、できるだけ分かりやすく説明を始めた。 「昔、戦争があった頃、鹿児島県の知覧という場所に、若い兵隊さんたちを自分の子供のように可愛がっていた食堂のおばちゃんがいたんだ。それが鳥濱トメさん。明日、命をかけて飛び立つ兵隊さんたちに、精一杯のあたたかいごはんを食べさせてあげていたんだよ」 健太は真剣な眼差しで私の話を聞いている。 「この玉子丼はね、そのトメさんの味を受け継いでいるんだ。トメさんの曾孫にあたる人が、トメさんの想いを込めて作った割り下を使っているんだって」

やがて運ばれてきた玉子丼は、ふんわりとした半熟卵が黄金色に輝き、甘辛い香りが食欲をそそった。 「いただきます」 手を合わせて、二人で匙を運ぶ。 口に入れると、出汁の優しい甘みと卵のまろやかさが広がり、心がほっとするような味わいだ。 「……おいしい」 健太が顔をほころばせた。 「うん、本当においしいね。これはね、ただおいしいだけじゃないんだ。平和な時代に、こうしてお父さんと健太が一緒にごはんを食べられる幸せの味がするんだよ」

健太はもう一口、玉子丼を頬張りながら、何かを噛み締めるように頷いた。 「僕、戦争のことはよく分からないけど、このごはんはすごく優しい味がする。トメさんも、兵隊さんたちに『お腹いっぱい食べてね』って気持ちで作ってたのかな」 「きっとそうだよ。だから、感謝して食べようね」

窓の外には、穏やかな日差しが降り注いでいる。 かつて多くの若者たちが守ろうとした未来。それが今、目の前で美味しそうに玉子丼を頬張る息子の笑顔に繋がっている。 ふと見上げた壁には、当時の富屋食堂の写真が飾られていた。 何気ない食事の時間が、これほどまでに尊く、温かいものだと感じるのは、この場所だからこそだろう。

「ごちそうさまでした!」 健太の元気な声が店内に響く。 空っぽになった丼を見つめながら、私は心の中で静かに手を合わせた。 平和のありがたさを、この優しい味とともに、次の世代へ伝えていきたい。そう強く思った昼下がりだった。

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コメント (1件)

通りすがり(2026/02/03)

親子の食事という日常の一場面から、平和の尊さが伝わる、温もりのあるストーリーです。

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