川の向こう
美咲が箸を二膳、引き出しから出した。
一本ずつ先を揃え、新聞紙で包んで、小さな段ボール箱に入れる。
「それも持っていくの?」
航平が聞くと、美咲は少しだけ手を止めた。
「二膳とも、私が買ったから」
言い方は静かだった。
その静けさが、航平にはいちばん堪えた。
結婚して三年。二十九歳の航平と、二十七歳の美咲が暮らす部屋には、まだ買い替えるほど古くなった家具もない。二人で組み立てた棚も、奮発した炊飯器も、ちゃんと使える。
それなのに、暮らしのほうが先に壊れかけていた。
美咲は来週、実家へ戻る。
離婚という言葉は、まだどちらも口にしていなかった。
*
きっかけは、航平の転職だった。
料理の仕事をしたい。
会社を辞めて飲食店で働き始めた航平を、美咲は応援してくれた。給料が減ることにも、帰りが遅くなることにも、最初は「なんとかなるよ」と笑った。
その言葉に、航平は甘えた。
休日がなくなった。連絡を忘れた。疲れて帰り、食卓に伏せた皿を見ても、礼を言う前に風呂へ向かった。
ある夜、帰宅すると、美咲が食卓に座っていた。
皿にはラップがかかっていた。向かいの席にも箸が置かれ、美咲の前の料理にも、まだ手がついていなかった。
「先に食べててよかったのに」
航平は冷蔵庫を開けながら言った。
「今日は早く帰れるって言ったでしょう」
「ああ……急に仕込みが増えて」
「連絡、できなかった?」
「忙しかったんだって」
美咲はそれ以上、何も言わなかった。
その沈黙を責められているように感じて、航平は続けた。
「俺だって、二人のために頑張ってるんだよ」
美咲は、向かいに置いた箸を見た。
「その二人の中に、私はいる?」
翌日から、食卓に並ぶ皿は一人分になった。
冷蔵庫には航平の夕飯が残してあった。洗濯物も畳まれていた。必要な会話もした。
だから航平は、まだ大丈夫なのだと思っていた。
美咲が段ボールを買ってくるまで。
*
荷造りをしていた日曜日、昼を過ぎても、二人とも何も食べていなかった。
「ラーメン、食べに行かない?」
航平は玄関に立って言った。
美咲が顔を上げた。
「今?」
「うん」
「どこに」
「川の向こう」
美咲は眉を寄せ、それから、ほんの少し笑った。
「それ、店の名前じゃないよ」
上大岡駅から商店街を抜け、大岡川を渡った先にある店。結婚したばかりのころ、一度だけ二人で入った。
正式な名前は『川の先の上』。
場所を覚えるのが苦手な美咲が「あの、川の向こうの」と呼んで以来、二人の間ではそれで通じていた。
「……お腹は、すいた」
美咲は段ボールのふたを閉じずに、立ち上がった。
*
川面には、薄い秋の光が揺れていた。
橋を渡るとき、航平は無意識に歩く速度を落とした。
昔はよく、美咲に「歩くの速い」と袖を引かれた。
いつから引かれなくなったのだろう。
振り返ると、美咲は一歩後ろにいた。航平が足を緩めると、隣に並んだ。
ビルの前で、美咲が上を見た。
「そうだった。階段だったね」
二階から、出汁の匂いが降りてきた。
店へ入ると、器の触れ合う音と、湯気の向こうから聞こえる声が、二人を包んだ。
航平は正油、美咲は塩。それから餃子を三つと、ミニカレーを一つ。
「そんなに食べるの?」
「カレー、半分食べる?」
美咲は少し考えてから、うなずいた。
食券を渡し、向かい合って座る。
話したいことは山ほどあった。それなのに、テーブルの上の茶を飲むことしかできなかった。
先に口を開いたのは美咲だった。
「ここ、覚えてる?」
「来たこと?」
「あなた、初めてのお給料が出たら、もっといいところに連れていくって言った」
航平にも覚えがあった。
当時は金がなく、少し遠くへ外食に出るだけで特別だった。
「言ったな」
「私、ここでよかったのに」
美咲は茶の入ったコップを両手で包んだ。
「どこでも、よかったんだよ」
ラーメンが運ばれてきた。
澄んだスープの表面に、灯りが丸く映っていた。焼き色のついたネギ。二種類のチャーシュー。長い穂先メンマ。
美咲がレンゲを口へ運び、目を細めた。
「ああ、おいしい」
その顔を見て、航平は胸が詰まった。
毎日、客においしいと言ってもらうために働いている。
なのに、いちばん近くにいる人が、おいしそうに何かを食べる顔を、ずいぶん長いこと見ていなかった。
航平もスープを飲んだ。
醤油の香りの奥から、いくつもの旨みがゆっくり広がった。熱が喉を通り、空っぽだった腹に落ちた。
「いつも、飯を残しておいてくれてたよな」
美咲の箸が止まった。
「うん」
「ちゃんと礼も言ってなかった」
「礼を言ってほしくて作ってたわけじゃないよ」
「うん」
美咲は麺を少し持ち上げ、それをまたスープに戻した。
「今日、こんなことがあったって、話したかっただけ」
航平は黙って聞いた。
「駅前のお店が変わったとか、会社でちょっと嫌なことがあったとか。そんな、大したことじゃない話」
「うん」
「でも、明日にしようって思っているうちに、話さなくてもいいことになっちゃうんだよね」
美咲は寂しそうに笑った。
「そうやって、話すことがなくなった」
話すことがなくなったから、黙っていたのだと思っていた。
違った。
聞いてもらえないまま、美咲の一日は何度も終わっていた。
「ごめん」
航平は言った。
忙しかった。疲れていた。余裕がなかった。
続けそうになった言葉を、飲み込んだ。
美咲は小さくうなずき、ラーメンをすすった。
航平も箸を取った。
今は、この食事を一緒に食べ終えたかった。
*
餃子は、噛むと生姜の香りが立った。
三つのうち、一つずつ食べて、最後の一つが皿に残った。
いつもなら航平が何も考えずに食べていた。
箸で半分にしようとすると、皮がうまく切れなかった。
「ぐちゃぐちゃになるよ」
美咲が言った。
「でも、半分」
「食べていいよ」
「美咲も、食べたいだろ」
美咲は困ったように笑い、自分の箸で反対側を押さえた。
二人でようやく分けた餃子は、片方がずいぶん大きかった。
航平は大きいほうを美咲の小皿に置いた。
ミニカレーには、レンコンの歯触りと、焼きネギの甘さがあった。美咲が一口食べて、航平のほうへ皿を押した。
「これ、好きだと思う」
食べると、本当に好きな味だった。
美咲はまだ、そういうことを知っていた。
航平はスプーンを置いた。
「戻ってきて、って、今すぐ言いたい」
美咲は顔を上げた。
「でも、また同じことになるって思うよな」
返事はなかった。
「日曜の夜、休めるように店長に相談する。遅くなるときは連絡する。約束できない日は、できるって言わない」
美咲は、航平の顔をじっと見た。
「毎日、早く帰ってきてほしかったわけじゃないよ」
「うん」
「待ってていいのか、先に食べたらいいのか。それだけでも、教えてほしかった」
「うん」
「あなたの仕事、応援したかったんだから」
航平は、うつむいた。
過去形になったその言葉を、もう一度、今のものにしたかった。
「また応援してもらえるようにする」
美咲は何も答えなかった。
けれど、残っていたカレーを、スプーンで半分に分けてくれた。
*
店を出ると、来たときより少し風が冷たくなっていた。
階段を下りながら、美咲が言った。
「来週は、予定どおり実家に行くね」
「うん」
「少し、考えたいから」
「わかった」
引き留める代わりに、航平は美咲の足元を見て、歩幅を合わせた。
橋の手前まで来たところで、美咲が立ち止まった。
「来週の日曜」
航平も止まった。
「夕飯、一緒に食べられる?」
「食べられる」
すぐに答えてから、言い直した。
「今日、相談する。わかったら、すぐ連絡する」
美咲は小さくうなずいた。
川の向こうに、二人の部屋がある。
まだ畳まれていない洗濯物も、閉じていない段ボールも、言えずに残った言葉もある。
何も元どおりになったわけではなかった。
それでも、帰る道を二人で歩いていた。
橋の真ん中で、美咲の指が、航平の上着の袖に触れた。
「箸」
「え?」
「あの二膳、今日は出しておくね」
航平は美咲を見た。
何か答えようとしたが、うまく声にならなかった。
ただ、うなずいて、その手を取った。
川の向こうには、まだ、二人分の夕飯を並べる場所があった。
