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川の先の上
横浜 上大岡ラーメン

川の向こう

by クーミン2026年10月18日5

川の向こう

美咲が箸を二膳、引き出しから出した。

一本ずつ先を揃え、新聞紙で包んで、小さな段ボール箱に入れる。

「それも持っていくの?」

航平が聞くと、美咲は少しだけ手を止めた。

「二膳とも、私が買ったから」

言い方は静かだった。

その静けさが、航平にはいちばん堪えた。

結婚して三年。二十九歳の航平と、二十七歳の美咲が暮らす部屋には、まだ買い替えるほど古くなった家具もない。二人で組み立てた棚も、奮発した炊飯器も、ちゃんと使える。

それなのに、暮らしのほうが先に壊れかけていた。

美咲は来週、実家へ戻る。

離婚という言葉は、まだどちらも口にしていなかった。

*

きっかけは、航平の転職だった。

料理の仕事をしたい。

会社を辞めて飲食店で働き始めた航平を、美咲は応援してくれた。給料が減ることにも、帰りが遅くなることにも、最初は「なんとかなるよ」と笑った。

その言葉に、航平は甘えた。

休日がなくなった。連絡を忘れた。疲れて帰り、食卓に伏せた皿を見ても、礼を言う前に風呂へ向かった。

ある夜、帰宅すると、美咲が食卓に座っていた。

皿にはラップがかかっていた。向かいの席にも箸が置かれ、美咲の前の料理にも、まだ手がついていなかった。

「先に食べててよかったのに」

航平は冷蔵庫を開けながら言った。

「今日は早く帰れるって言ったでしょう」

「ああ……急に仕込みが増えて」

「連絡、できなかった?」

「忙しかったんだって」

美咲はそれ以上、何も言わなかった。

その沈黙を責められているように感じて、航平は続けた。

「俺だって、二人のために頑張ってるんだよ」

美咲は、向かいに置いた箸を見た。

「その二人の中に、私はいる?」

翌日から、食卓に並ぶ皿は一人分になった。

冷蔵庫には航平の夕飯が残してあった。洗濯物も畳まれていた。必要な会話もした。

だから航平は、まだ大丈夫なのだと思っていた。

美咲が段ボールを買ってくるまで。

*

荷造りをしていた日曜日、昼を過ぎても、二人とも何も食べていなかった。

「ラーメン、食べに行かない?」

航平は玄関に立って言った。

美咲が顔を上げた。

「今?」

「うん」

「どこに」

「川の向こう」

美咲は眉を寄せ、それから、ほんの少し笑った。

「それ、店の名前じゃないよ」

上大岡駅から商店街を抜け、大岡川を渡った先にある店。結婚したばかりのころ、一度だけ二人で入った。

正式な名前は『川の先の上』。

場所を覚えるのが苦手な美咲が「あの、川の向こうの」と呼んで以来、二人の間ではそれで通じていた。

「……お腹は、すいた」

美咲は段ボールのふたを閉じずに、立ち上がった。

*

川面には、薄い秋の光が揺れていた。

橋を渡るとき、航平は無意識に歩く速度を落とした。

昔はよく、美咲に「歩くの速い」と袖を引かれた。

いつから引かれなくなったのだろう。

振り返ると、美咲は一歩後ろにいた。航平が足を緩めると、隣に並んだ。

ビルの前で、美咲が上を見た。

「そうだった。階段だったね」

二階から、出汁の匂いが降りてきた。

店へ入ると、器の触れ合う音と、湯気の向こうから聞こえる声が、二人を包んだ。

航平は正油、美咲は塩。それから餃子を三つと、ミニカレーを一つ。

「そんなに食べるの?」

「カレー、半分食べる?」

美咲は少し考えてから、うなずいた。

食券を渡し、向かい合って座る。

話したいことは山ほどあった。それなのに、テーブルの上の茶を飲むことしかできなかった。

先に口を開いたのは美咲だった。

「ここ、覚えてる?」

「来たこと?」

「あなた、初めてのお給料が出たら、もっといいところに連れていくって言った」

航平にも覚えがあった。

当時は金がなく、少し遠くへ外食に出るだけで特別だった。

「言ったな」

「私、ここでよかったのに」

美咲は茶の入ったコップを両手で包んだ。

「どこでも、よかったんだよ」

ラーメンが運ばれてきた。

澄んだスープの表面に、灯りが丸く映っていた。焼き色のついたネギ。二種類のチャーシュー。長い穂先メンマ。

美咲がレンゲを口へ運び、目を細めた。

「ああ、おいしい」

その顔を見て、航平は胸が詰まった。

毎日、客においしいと言ってもらうために働いている。

なのに、いちばん近くにいる人が、おいしそうに何かを食べる顔を、ずいぶん長いこと見ていなかった。

航平もスープを飲んだ。

醤油の香りの奥から、いくつもの旨みがゆっくり広がった。熱が喉を通り、空っぽだった腹に落ちた。

「いつも、飯を残しておいてくれてたよな」

美咲の箸が止まった。

「うん」

「ちゃんと礼も言ってなかった」

「礼を言ってほしくて作ってたわけじゃないよ」

「うん」

美咲は麺を少し持ち上げ、それをまたスープに戻した。

「今日、こんなことがあったって、話したかっただけ」

航平は黙って聞いた。

「駅前のお店が変わったとか、会社でちょっと嫌なことがあったとか。そんな、大したことじゃない話」

「うん」

「でも、明日にしようって思っているうちに、話さなくてもいいことになっちゃうんだよね」

美咲は寂しそうに笑った。

「そうやって、話すことがなくなった」

話すことがなくなったから、黙っていたのだと思っていた。

違った。

聞いてもらえないまま、美咲の一日は何度も終わっていた。

「ごめん」

航平は言った。

忙しかった。疲れていた。余裕がなかった。

続けそうになった言葉を、飲み込んだ。

美咲は小さくうなずき、ラーメンをすすった。

航平も箸を取った。

今は、この食事を一緒に食べ終えたかった。

*

餃子は、噛むと生姜の香りが立った。

三つのうち、一つずつ食べて、最後の一つが皿に残った。

いつもなら航平が何も考えずに食べていた。

箸で半分にしようとすると、皮がうまく切れなかった。

「ぐちゃぐちゃになるよ」

美咲が言った。

「でも、半分」

「食べていいよ」

「美咲も、食べたいだろ」

美咲は困ったように笑い、自分の箸で反対側を押さえた。

二人でようやく分けた餃子は、片方がずいぶん大きかった。

航平は大きいほうを美咲の小皿に置いた。

ミニカレーには、レンコンの歯触りと、焼きネギの甘さがあった。美咲が一口食べて、航平のほうへ皿を押した。

「これ、好きだと思う」

食べると、本当に好きな味だった。

美咲はまだ、そういうことを知っていた。

航平はスプーンを置いた。

「戻ってきて、って、今すぐ言いたい」

美咲は顔を上げた。

「でも、また同じことになるって思うよな」

返事はなかった。

「日曜の夜、休めるように店長に相談する。遅くなるときは連絡する。約束できない日は、できるって言わない」

美咲は、航平の顔をじっと見た。

「毎日、早く帰ってきてほしかったわけじゃないよ」

「うん」

「待ってていいのか、先に食べたらいいのか。それだけでも、教えてほしかった」

「うん」

「あなたの仕事、応援したかったんだから」

航平は、うつむいた。

過去形になったその言葉を、もう一度、今のものにしたかった。

「また応援してもらえるようにする」

美咲は何も答えなかった。

けれど、残っていたカレーを、スプーンで半分に分けてくれた。

*

店を出ると、来たときより少し風が冷たくなっていた。

階段を下りながら、美咲が言った。

「来週は、予定どおり実家に行くね」

「うん」

「少し、考えたいから」

「わかった」

引き留める代わりに、航平は美咲の足元を見て、歩幅を合わせた。

橋の手前まで来たところで、美咲が立ち止まった。

「来週の日曜」

航平も止まった。

「夕飯、一緒に食べられる?」

「食べられる」

すぐに答えてから、言い直した。

「今日、相談する。わかったら、すぐ連絡する」

美咲は小さくうなずいた。

川の向こうに、二人の部屋がある。

まだ畳まれていない洗濯物も、閉じていない段ボールも、言えずに残った言葉もある。

何も元どおりになったわけではなかった。

それでも、帰る道を二人で歩いていた。

橋の真ん中で、美咲の指が、航平の上着の袖に触れた。

「箸」

「え?」

「あの二膳、今日は出しておくね」

航平は美咲を見た。

何か答えようとしたが、うまく声にならなかった。

ただ、うなずいて、その手を取った。

川の向こうには、まだ、二人分の夕飯を並べる場所があった。

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