平日の午後、「なぎさ橋珈琲」は静かだった。
美咲はガラス越しに逗子の海を眺めていた。空は重く、水平線と雲の境目が曖昧だ。テラスに出ていた客が一人、風に押されるように店内へ戻ってきた。
来週、婚姻届を出す。
相手は大学時代の友人の紹介で知り合った、三つ年上の公務員だ。穏やかで、誠実で、約束を守る人。両親も安心している。「いい人が見つかってよかった」と、母は何度も言った。
二十代の終わりを、美咲はようやく受け入れようとしていた。
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七年前、この道を何度も走った。
助手席から見る景色はいつも眩しかった。海沿いの国道を抜けて、灯台のある岬まで。帰りにこの店で休憩するのが二人の習慣だった。
彼の名前は、もう口にしないと決めている。
バンドをやっていて、夢ばかり語っていて、現実を見ようとしなかった。美咲も似たようなものだった。将来のことなんか考えず、ただその日が楽しければよかった。親に隠れて夜通し遊んで、講義をサボって、若さを浪費した。
あの頃の自分を、美咲は好きではない。
別れたのは二十四の冬だった。理由はたくさんあったし、一つもなかったとも言える。ただ、二人の時間が終わっただけだった。
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窓の外を車が通り過ぎる。
美咲は無意識に目で追った。白い車体。一瞬だけ、記憶の底が揺れた。
今この店に、彼が入ってきたらどうするだろう。
隣に誰かを連れているかもしれない。幸せそうに笑っているかもしれない。目が合っても、きっと声はかけない。知らない人のふりをして、そのまま通り過ぎる。
それでいい、と美咲は思った。
懐かしむ必要はない。後悔する必要もない。あれは終わった季節の話だ。
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冷めかけた珈琲を飲み干して、美咲は席を立った。
会計を済ませ、外に出ると、潮の匂いを含んだ風が吹きつけた。駐車場までの短い距離を歩きながら、一度だけ振り返った。
曇った空、灰色の海、風に揺れる松林。
この景色を見るのは、たぶんこれが最後だ。
車に乗り込み、ナビに自宅の住所を入れた。岬の方へは行かない。寄り道もしない。まっすぐ帰って、届け出の準備をする。
新しい名前で、新しい場所で、新しく始める。
美咲はハンドルを握り、静かにアクセルを踏んだ。
