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paso by 27 COFFEE ROASTERS
湘南 鎌倉カフェ

古民家カフェからの新たなスタート

by 匿名2026年1月4日

正月の鎌倉は、季節外れに暖かかった。

村瀬正人が江ノ電を極楽寺駅で降りると、テレビドラマでよく見た光景が広がった。六十歳まであと半年。人材派遣会社で三十年、飲食業界の人材を企業と結びつけることに人生を捧げてきた。定年後の再雇用の話も来ている。だが、このまま惰性で生きていくことへの違和感が、最近ふくらんでいた。

「休みの日くらい、仕事のことは忘れなさいよ」

妻に言われて、一人で鎌倉に来た。目的地はない。ただ、どこか静かな場所で珈琲を飲みたかった。

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坂ノ下の路地を歩いていると、古い木造の建物が目に入った。「paso by 27 COFFEE ROASTERS」——控えめな看板。格子戸を開けると、焙煎された豆の芳醇な香りが鼻腔を満たした。

縁側のカウンター席に腰を下ろす。窓の向こうには、小さな庭と、その先にうっすらと光る海が見えた。

「いらっしゃいませ。本日のおすすめは、エチオピアのゲイシャです」

三十代半ばだろうか。落ち着いた物腰の店主が、一枚の手書きメニューを差し出した。ゲイシャは一杯1,200円。普段なら躊躇する値段だが、今日は構わなかった。

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村瀬はゲイシャを頼んだ。店主がゆっくりとハンドドリップで淹れる姿を、ぼんやりと眺める。一滴一滴、丁寧に。急ぐ素振りがまったくない。

三十年間、村瀬は常に数字を追ってきた。何人紹介した、何件成約した、売上はいくらだ。効率、スピード、成果。それが正義だった。

「お待たせしました」

目の前に置かれた珈琲からは、花のような、果実のような、複雑な香りが立ち上っていた。一口含むと、舌の上で甘みと酸味が踊った。こんな珈琲は初めてだった。

「……うまい」

思わず声が出た。店主が微笑んだ。

「ありがとうございます。農家の方が何年もかけて育てた豆です。僕はそれを、できるだけ良い状態でお届けしたいだけなんです」

その言葉が、なぜか胸に刺さった。

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ショーケースに並んだバスクチーズケーキが目に入った。650円。珈琲と合わせて1,850円。会社の近くで済ませる昼食の三日分だ。だが村瀬は、迷わずそれも頼んだ。

「ここは、いつから?」

「四年前です。もともとは東京でサラリーマンをしていたんですが、どうしても自分の手で珈琲を淹れる店がやりたくて」

村瀬は黙って珈琲を啜った。窓から入る午後の光が、古い木の床を温かく照らしている。運ばれてきたバスクチーズケーキは、表面がほどよく焦げて、中はとろりと濃厚だった。

「私は……人材の仕事を三十年やってきました」

なぜそんなことを言ったのか、自分でもわからなかった。

「主に飲食業界です。レストランやカフェに、働く人を紹介する仕事です」

店主は静かに頷いた。

「大変なお仕事ですね。飲食は人がすべてですから」

「ええ。でも最近は、数を追うばかりで……本当にその人に合った場所を見つけてあげられているのか、わからなくなってきました」

言葉にしてみて、それが自分の本音だと気づいた。

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店主はしばらく黙っていたが、やがて口を開いた。

「僕がこの店を開くとき、一番苦労したのは人でした。一緒に働いてくれる人を探すのが、本当に難しかった。条件だけじゃなくて、珈琲への想いを共有できる人が必要だったから」

村瀬は顔を上げた。

「今は?」

「良い仲間に出会えました。でも、そういうマッチングを手伝ってくれる人がいたら、どれだけ助かったか」

その一言が、村瀬の中で何かを動かした。

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帰りの江ノ電の中で、村瀬は窓の外を流れる湘南の海を見つめていた。

三十年間、大きな会社の歯車として働いてきた。でも、定年後は違うやり方があるのかもしれない。

数ではなく、質。効率ではなく、想い。

飲食店と、そこで働きたい人の「本当のマッチング」を助ける仕事。小さくていい。一件一件、丁寧に。あの店主が珈琲を淹れるように。

スマートフォンを取り出し、妻にメッセージを送った。

「いい珈琲を飲んできた。話したいことがある」

送信ボタンを押す指が、少しだけ震えていた。それは、三十年ぶりの、新しい一歩への震えだった。​​​​​​​​​​​​​​​​

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