娘とは、もうずいぶん口をきいていなかった。 大きな喧嘩をしたわけでもない。 理由を探そうとすると、どれも取るに足らない気がして、結局そのまま時間だけが過ぎた。
誕生日の朝も、特別な期待はしていなかった。 仕事の合間にスマホを見ると、娘から一言だけメッセージが来ていた。
「今日、ケーキあるから」
帰宅すると、テーブルの上に小さな箱が置いてあった。 横浜の馬車道にあるケーキ屋の箱だった。 聞いたことはある。休日の午後になると、すぐ売り切れる店だ。
箱を開けると、洋梨のショートケーキ。 正直、甘いものは苦手だ。 生クリームは重たいし、ケーキは子どもの食べ物だと思っていた。
「これ、あそこのだよ」
娘はそれだけ言って、キッチンに立ったままこちらを見ない。 フォークを入れると、スポンジがしっとり沈んだ。 クリームは思ったより控えめで、洋梨がみずみずしい。
一口食べて、少し驚いた。 甘さが前に出てこない。 口の中でほどけて、あとに残るのは果物の香りと、軽いコクだけだった。
「……これ、うまいな」
娘の肩が、ほんの少しだけ動いた。
「コーヒー、入れるか?」
自分でも驚くくらい、自然に言葉が出た。 娘は小さく「うん」と言って、カップを取り出す。
湯が落ちる音と、コーヒーの香り。 さっきまで張りつめていた空気が、ゆっくり緩んでいく。
「この店、プリンも美味しいんだって」 「そうなのか」 「今度はそれにしようか」
それだけの会話だった。 昔みたいに戻ったわけでもない。 でも、ケーキ皿は空になっていた。
洋梨のショートケーキは、 甘さを抑えた分だけ、言葉の代わりになってくれた気がした。
飲食店短編小説
