日本大通りの午後は、冬になると少しだけ歩調が遅くなる。 港へ抜ける風が冷たく、県庁の影が長く伸びるころ、男はいつもの階段を上がった。
アクアオリビン。 古い建物の二階。 ランチで何度も訪れているが、夜に来るのは年に一度あるかないかだった。
男は三十代後半、独身。 このあたりで働いていて、昼休みにふと思い立って来ることがある。 理由は簡単だ。 ここでは、料理も、人も、急がない。
その夜は、クリスマスだった。 二十五日の、少し遅い時間。 ピークを過ぎた店内には、客の姿もまばらで、空いたテーブルが静かに並んでいた。 誰かと過ごす予定はなかったが、ひとりでいることに、特別な理由も要らなかった。
窓際の席に案内される。 象の鼻防波堤の灯りが、水面に揺れている。 夜景は派手ではないが、長く見ていられる種類の光だった。
厨房には、シェフがひとり。 いつも通り、必要以上の言葉はない。
最初に出されたのは、 アミューズブッシュ。 小さな一皿に、冬の始まりのような静けさがあった。
続いて、 蟹と旬菜のサラダ仕立て キャビア添え。 蟹の甘みと野菜の歯ざわり、その上にのるキャビアが、夜を少しだけ祝祭に近づける。
フォワグラのソテー 蕪コンフィ バルサミコ酢風味ソース。 重たくなりすぎない。 蕪のやさしさが、フォワグラを包み込み、赤ワインの記憶を呼び起こす。
男は、ワインを一口飲み、窓の外を見た。 誰かと過ごすクリスマスもあった。 なかった年もある。 どちらも、今となっては同じように静かだ。
平目の蒸し煮 香草風味。 蒸気の中から立ち上る香りは、派手さはないが、確かに季節を語っていた。
そして、 国産牛ホホ肉の赤ワイン煮 野菜のピューレ添え。 時間をかけた柔らかさ。 噛む必要がないほどで、それでも「生きている肉」だった。
最後に、 クリスマス特製デセール。 甘さは控えめで、食後に余白を残す。
カフェとトリュフショコラ。 エスプレッソの苦味が、夜を締める。
食べ終えたころ、シェフがカウンター越しに、ふとこちらを見た。
「——ひとりで来る夜も、悪くないでしょう」
それだけだった。 励ますでもなく、慰めるでもなく、肯定だけがそこにあった。
男は、ゆっくりと頷いた。
外では、港の風が音を立てている。 クリスマスは、誰かと過ごさなければならない日ではない。 ただ、丁寧に食べて、丁寧に終わらせる夜があってもいい。
店を出るとき、男は思った。
来年も、もしひとりだったら、またここに来よう。 それは、少しも寂しい約束ではなかった。
