あの夏の日比谷は、いつもクリームの甘い匂いがしていた。
大学一年の夏休み、僕は友人の誠に誘われて、有楽町駅からほど近い喫茶店「アマンド」でアルバイトを始めた。白とピンクの縞模様の外壁が目印の、小さな洋菓子喫茶だ。今の日比谷シャンテのそば辺り、線路沿いの通りにひっそりと佇んでいた。
「ここ、シュークリームが名物なんだ。まかないで出るぞ」
誠はそう言って笑ったが、僕がアマンドで見つけたのは、シュークリームよりもずっと甘い存在だった。
彼女の名前は、里美さんといった。
僕より一つ年上で、同じアマンドのホールで働いていた。栗色の髪を一つにまとめて、白いエプロンがよく似合う人だった。注文を取るときの穏やかな声、皿を運ぶしなやかな指先。僕はカウンターの向こうから、何度もその横顔を盗み見ていた。
最初に言葉を交わしたのは、ある昼下がりのことだ。
「ねえ、日劇に出前、一緒に行ってくれない?」
里美さんが困ったように僕を見た。いつもは先輩のスタッフが行く配達だったが、その日は人手が足りなかったらしい。僕は二つ返事で引き受けた。
日劇――日本劇場は、アマンドからそう遠くない場所にあった。ケーキの箱を大事に抱えて裏口から入ると、楽屋口の廊下は別世界だった。ショーの合間なのだろう、すれ違うダンサーたちは華やかなステージ衣装のまま廊下を行き交っていた。きらびやかなスパンコール、大胆に肌を見せた衣装。十八歳の僕は、目のやり場に困って天井ばかり見つめていた。
「ふふ、真っ赤になってる」
里美さんが、箱を受け取りながら小さく笑った。その笑顔が、楽屋のどんな衣装よりも眩しかった。
八月のある夕方、里美さんのサンダルの鼻緒が切れた。
「歩けない……どうしよう」
店の裏に停めてあった配達用の自転車が目に入った。
「乗りますか、後ろ」
言ってしまってから後悔した。二人乗りなんて、子どもみたいだ。でも里美さんは少し驚いた顔をして、それから「お願いしようかな」と微笑んだ。
彼女が荷台にそっと腰を下ろすと、背中にふわりと甘い香りが届いた。バニラエッセンスと、焼き菓子の匂い。一日中アマンドの厨房にいた人の、やさしい残り香だった。
「落ちないでくださいね」
「大丈夫。しっかり掴まってるから」
ペダルを踏むたびに、後ろからかすかに笑い声が聞こえた。日比谷の交差点を抜け、並木の影が二人の上を流れていく。夕暮れの風が心地よかった。あの時間が永遠に続けばいいと、本気で思った。
僕は少し遠回りをした。里美さんは何も言わなかった。
バイトの帰りには、よく「まかない」のお菓子をもらった。
アマンドの名物は、ドーナツのようなリング型のシュークリーム。しっかりした生地に、生クリームとカスタードクリームがたっぷり挟まれて、上には粉砂糖が雪のようにふりかかっている。口コミで評判の逸品だった。
ある夜、里美さんと二人でリングシュークリームを持って、日比谷公園に寄った。
噴水のそばのベンチに並んで座り、紙袋からシュークリームを取り出す。一口かじると、サクリとした生地の食感のあとに、なめらかなクリームが口いっぱいに広がった。
「おいしいね」
里美さんが言った。粉砂糖が唇の端についていた。
「ついてますよ、ここ」
僕が指で示すと、里美さんは慌てて手の甲で拭った。その仕草がおかしくて、二人で声を上げて笑った。
公園の木々のあいだから、夏の夜風が吹き抜けていく。遠くでは、まだ日比谷の街が光っていた。甘いクリームの味と、隣にいる人のぬくもり。あの瞬間、世界はそれだけでできていた。
夏休みが終わると、僕はアマンドのバイトを辞めた。里美さんも秋には別の仕事に移ると言っていた。
最後の日、里美さんが小さな紙箱をくれた。中にはリングシュークリームが一つ。
「お世話になりました。楽しかったね」
僕は「ありがとうございます」としか言えなかった。本当は言いたいことがもっとあった。でも、十八歳の僕にはその勇気がなかった。
あれから何十年が経っただろう。
アマンドの日比谷店はもう閉じてしまった。日劇もとうの昔に姿を消した。あの白とピンクの店構えも、楽屋のきらめきも、今はどこにもない。
でも、目を閉じれば今でも鮮やかに思い出す。
自転車の荷台から聞こえた笑い声。日劇の廊下で目のやり場に困った自分。日比谷公園のベンチで食べたリングシュークリームの、あの甘さ。
そしてあの夏、僕は初めて知ったのだ。
働くということは、こんなにも楽しいものなのだと。
それは、お金を稼ぐということだけではなかった。誰かと同じ場所で汗を流し、同じ時間を共有し、ふとした瞬間に目が合って笑い合う――その一つひとつが、生きることそのものだった。
里美さんは今、どこで何をしているだろう。
粉砂糖が唇についていたあの夜のことを、まだ覚えているだろうか。
あの夏の日比谷は、いつもクリームの甘い匂いがしていた。
