京浜急行の赤い電車が高架を抜けていく音を背に、私は息子と並んで歩いていた。 黄金町と阪東橋のちょうど中ほど。伊勢佐木町商店街からそのまま伸びてきた商店街の一角である。 このあたりは、昼であってもどこか夜の名残を引きずったような路地が多く、通りを行き交う人々の足取りも、少しだけ気まぐれだ。
数年ぶりに会う息子は、小学生になっていた。 背は伸びたが、歩き方にはまだ幼さが残っている。 私は父であるはずなのに、どう声をかけてよいか分からず、ただ黙って隣を歩いていた。
「……タコス、好きなんだろ」
ようやく絞り出した声は、自分でも驚くほどぎこちなかった。
「うん。ママのとこで、たまに食べる」
短い返事。 だがそれだけで、少し胸の奥が緩んだ。
商店街の喧騒がふっと途切れ、路地を一本折れたところで、小さな看板が目に入った。 Chapman tacos。 私はその文字を見て、半ば逃げるように言った。
「……ここ、入ってみるか」
息子は一瞬こちらを見てから、小さく頷いた。
日曜の正午。 口開けの店内はまだ静かで、コンクリート打ち放しの壁に、焼けたトルティーヤの香りが柔らかく満ちていた。 店は縦に細長く、白いテーブルが二列に並び、奥にはキッチンカウンターが見える。 外国人の客がぽつりぽつりと腰掛け、どこか異国の昼下がりのような空気が漂っていた。
カウンター席もあったが、店の人は何も言わず、私たちをテーブル席へ案内してくれた。
「先ずは……」
私は黄金色の瓶を手に取った。 休日の正午に飲むビールほど、人を正直にするものはない。
ライムを瓶に押し込み、喉へ流し込む。 苦味と酸味が混じり合い、思わず息が漏れた。
「……おいしい?」
息子が、少しだけ興味深そうに聞いた。
「ああ。生き返る」
その言葉に、息子がくすっと笑った。 その笑いを、私は見逃さなかった。
やがて、タコスが運ばれてくる。 三つ並んだそれぞれが、まるで性格の違う兄弟のように見えた。
牛ステーキ。 白身魚のソテー。 そして、豚のオレンジ煮込み。
特に目を引いたのは、コーン100%のトルティーヤである。 焼き立てなのか、香ばしい匂いが静かに立ち上り、指先に触れるとまだ温かい。
「好きなの、どれ?」
「……これ」
息子は、豚のタコスを指さした。
パクチー、玉葱、サルサ。 ハラペーニョとピコ・デ・ガヨを、二人で少しずつ足していく。
「辛いの、大丈夫か」
「ちょっとなら」
そんなやり取りが、思いのほか自然に続いた。
一口かじると、豚の甘みと柑橘の香りが広がる。 息子は目を丸くし、もう一口、今度は大きく噛んだ。
「……これ、すごい」
その一言が、妙に胸に響いた。 私は、息子の「すごい」を、何年も聞いていなかった。
追加で頼んだセビーチェは、皿の上に海が広がったようだった。 エビ、イカ、ホタテ、ムール貝。 にんにくが程よく効き、私のビールは自然と減っていく。
「パパ、これも食べる?」
皿を差し出され、私は少し驚いた。 いつの間にか、「お父さん」ではなく「パパ」になっている。
「ああ、もらおう」
それだけで、十分だった。
店を出る頃、息子は言った。
「また、ここ来たいな」
私は頷いた。
「ああ。次は……焼きそばみたいなのもあるらしい」
「え、タコス屋で?」
「そういうのも、悪くない」
商店街に戻ると、午後の光が少しだけ柔らいでいた。 黄金町と阪東橋のあいだ。 その曖昧な場所で、私たちの距離もまた、少しだけ曖昧さを取り戻していた。
別れたものは戻らない。 だが、同じ卓につき、同じタコスを頬張ることで、 人はもう一度、言葉を探し始めることができるらしい。
私はそう思いながら、息子の歩幅に合わせて、ゆっくりと歩いた。
