石川町駅の改札を出た瞬間、空気の匂いが違うと彼女は思った。
長くいた海外の乾いた風とも、都心の排気ガスとも違う。 どこか柔らかくて、少しだけ甘い。
「……帰ってきたんだな」
誰に聞かせるでもなく呟いてから、彼女は坂道へ向かった。
フェリス女学院に通っていた頃、毎日のように歩いた坂。 当時は友人と笑いながら登っていたはずなのに、三十代になった今は妙に長く感じる。
体感二十分。
学生時代なら、きっと五分だった。
「こんなに急だったっけ……」
軽く息を切らしながら顔を上げると、見慣れた赤い屋根が見えた。
喫茶エレーナ。
白い壁。少しノスタルジックな佇まい。 時間から切り離されたみたいな、あの店。
ドアを押すと、鈴の音が静かに鳴った。
「いらっしゃいませ」
低く穏やかな声。
流れているのは、主張しすぎないゆったりとしたBGM。 窓から差し込む光が、木のテーブルを淡く照らしている。
昼前、混雑率は五割ほど。
2名用テーブルがいくつかと、4名用テーブル。 昔と何も変わっていない気がした。
彼女は自然と窓際へ足を運んだ。
視線の先に、ランドマークタワー。
この景色も、学生時代と同じ。
なのに、不思議と違って見える。
制服姿で座っていたあの頃の自分。 将来なんて、ぼんやりとしか考えていなかった頃。
「ご注文お決まりですか?」
顔を上げると、柔らかな笑顔の女性スタッフ。
「……パンプキンプリンと、アイスティー。ストレートで」
口に出した瞬間、胸の奥が少しだけ熱くなる。
あの頃、よく頼んだ組み合わせ。
「セットで百円引きになります」
その言葉すら、懐かしい。
提供は三分。
驚くほど早い。
小ぶりで、しっかり固めのプリン。
上には上品な甘さのホイップクリーム。 ゆっくり流れるビターなカラメルソース。
スプーンを入れると、きちんとした抵抗。
一口。
「……あ……」
思わず小さく声が漏れた。
カボチャ感は控えめ。
でも、ゆっくり味わうと確かに存在を主張してくる。 派手ではないのに、忘れられない味。
海外で食べたどんなデザートよりも、妙に心に沁みた。
アイスティーを一口。
静かな店内。
落ち着いた客層。
会話しやすい騒音レベル。
すべてが、ちょうどいい。
学生時代、彼女はよくここで時間を潰していた。
試験前。 恋の悩み。 将来への不安。
あの頃は、悩みでいっぱいだったはずなのに。
今思い出すのは、笑い声ばかり。
「人って勝手だな……」
少し笑って、窓の外を見る。
ランドマークタワーは、相変わらず堂々としている。
自分だけが変わってしまったみたいな感覚。
でも。
プリンは、あの頃のままだった。
「これ……美味しいなぁ……」
今さらみたいに呟く。
昔も同じ感想を抱いていたはずなのに、 その重みがまるで違う。
帰国したばかりの不安。
これからの生活。
仕事。
人間関係。
色々なものが頭の中を巡っていたはずなのに。
カラメルの苦味と、プリンの優しい甘さが、 それらを静かに溶かしていく。
この店は変わらない。
坂は相変わらずきついし、 支払いは現金のみだし、 時間の流れ方も独特だ。
でも。
だからいいのだと彼女は思った。
外の世界でどれだけ時間が進んでも。
ここには、昔の自分がちゃんと残っている。
最後の一口をすくい上げながら、彼女は思う。
また来よう。
特別な日じゃなくていい。
理由もいらない。
ただ、坂を登って。
プリンを食べに。
店を出ると、冬の光。
帰りの下り坂は体感三分。
「……やっぱり下りは早いんだ」
小さく笑って、彼女は歩き出した。
少しだけ軽くなった足取りで。
