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母屋食堂 一炭もんめ
横浜 上大岡居酒屋

一炭もんめ~温もりのある火~

by 悟浄2026年6月13日15

午後七時を過ぎても、会議室の空気は冷めなかった。

 佐伯修一は、ノートパソコンを閉じるタイミングを失ったまま、上司の言葉を聞いていた。

「AIを入れるなら、まず数字だ。何人分の工数が削減できるのか。そこを示してくれ」

 部長の声は正しい。会社として投資する以上、効果を問うのは当然だった。

 しかし、佐伯の胸には別の声も残っていた。

「佐伯さん、AIって、結局ぼくらの仕事を奪うんですか?」

 昼間、若手の高橋がぽつりと言った言葉だった。冗談めかして笑っていたが、目は笑っていなかった。

 上からは成果を求められる。下からは不安を向けられる。  中間管理職という言葉はよくできている、と佐伯は思った。間に立つのではない。間に挟まれるのだ。

 会社を出ると、上大岡の街には初夏の湿った夜風が流れていた。駅へ向かう人の流れに乗りながら、佐伯はスマートフォンを取り出した。妻に「少し遅くなる」とだけ打ち、送信ボタンを押す。

 まっすぐ帰る気になれなかった。

 ふと、路地の奥に灯る明かりが目に入った。

 一炭もんめ。

 以前、同僚に「上大岡ならあそこはいいですよ」と勧められた店だった。名前だけは覚えていた。炭の字が、今の自分には妙に引っかかった。

 暖簾をくぐると、炭火の香ばしい匂いがふわりと身体を包んだ。

「いらっしゃいませ。おひとりですか?」

 若い店員が、忙しそうでありながら、こちらの疲れまで見ているような声で迎えてくれた。

「はい。一人です」

「では、カウンターへどうぞ。外、少し蒸しましたでしょう。まずはゆっくり涼んでいってください」

 その一言で、佐伯は少しだけ救われた気がした。

 席に着くと、目の前では串が炭火の上で静かに焼かれていた。火は派手に燃え上がらない。ただ、赤く、深く、じっと食材を変えていく。

「お飲み物、どうされますか?」

「日本酒を……おすすめで」

「今日は焼き鳥に合うすっきりしたものがありますよ」

「じゃあ、それを」

 運ばれてきた酒をひと口含むと、張りつめていたものが喉の奥でほどけた。

 続いて出てきた串焼きは、塩がきいていた。噛むと肉汁が広がり、炭の香りが鼻に抜ける。レバーは驚くほどなめらかで、ハツは歯切れがよかった。

 佐伯は思わず、目を閉じた。

 今日一日、AI、効率化、削減、導入計画、リスク、社内説明。そんな言葉ばかりに囲まれていた。けれど目の前の一本の串は、何も急かしてこなかった。

 焼く人がいて、待つ時間があり、ちょうどいい頃合いがある。

 それだけのことが、ひどく贅沢に思えた。

「お仕事帰りですか?」

 店員が炊き込みご飯の土鍋を運びながら声をかけた。

「ええ。ちょっと、頭が煮詰まってしまって」

「そういう日は、焼き物がいいですよ。火を見てると、少し落ち着きますから」

 佐伯は小さく笑った。

「たしかに。会議室には火がないですからね」

「火があったら大変です」

 店員も笑った。

 その笑い方がよかった。大げさではなく、こちらの肩の力をそっと抜くような笑い方だった。

 佐伯は、ふと尋ねた。

「こういうお店って、忙しいと大変でしょう」

「大変です。でも、お客さんの顔を見ると、だいたい分かるんです。急いでる人、話したい人、静かに飲みたい人」

「分かるものですか」

「全部は分かりません。でも、見ようとはします」

 見ようとはします。

 その言葉が、佐伯の胸に残った。

 AI導入の会議で、彼はずっと説明してきた。  この業務は何分短縮できる。  この資料は自動で作れる。  この問い合わせはチャットボットで対応できる。

 だが、現場の人間を「見よう」としていただろうか。

 部長の求める数字。若手の抱える不安。ベテラン社員の誇り。事務担当者の小さな困りごと。

 それらを一つの資料に押し込めて、「AI活用」と呼んでいなかったか。

 締めの手打ち蕎麦をすすると、蕎麦の香りと出汁のやさしさが広がり、今日一日抱えていた重さが少しずつ消えていく気がした。

 佐伯は箸を置き、スマートフォンのメモを開いた。

 最初に打った言葉は、こうだった。

 AIは、人を減らすためではなく、人が人を見る時間を増やすために使う。

 続けて、明日の会議で話すことを書いた。

 まず、部長には工数削減の数字を出す。ただし、それだけを目的にしない。  次に、若手には「仕事がなくなる」のではなく、「面倒な作業を減らして、考える仕事を増やす」と伝える。  そして、各部署から一人ずつ参加してもらい、不安や困りごとを聞く場を作る。

 AI導入プロジェクトではなく、現場を楽にするプロジェクトにする。

「何か、いいこと思いつきました?」

 店員が皿を下げながら言った。

「ええ。少しだけ」

「それはよかったです」

「ここの串のおかげです」

「では、串にも伝えておきます」

 佐伯は久しぶりに声を出して笑った。

 店を出ると、夜の上大岡はまだにぎやかだった。駅へ向かう道の途中で、佐伯はもう一度振り返った。暖簾の奥で、炭火が赤く揺れている気がした。

 会社も、きっと同じなのだと思った。

 強すぎる火は、人を焦がす。  弱すぎる火では、何も変わらない。  ちょうどいい火加減を探しながら、時間をかけて向き合うしかない。

 上司にも、部下にも、そして自分自身にも。

 翌朝、佐伯はいつもより少し早く出社した。

 会議資料のタイトルを変えた。

 「AI業務活用計画」

 その下に、小さく副題を入れた。

 人を置き去りにしないための、最初の一歩。

 窓の外には、朝の光が差していた。

 佐伯は深く息を吸い、パソコンを開いた。

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コメント (1件)

カウンター越しの人(2026/06/14)

効率化やAIが進む時代だからこそ、人を見ること、人の声を聞くことの大切さを感じさせてくれる作品。 炭火の温もりと焼き鳥の香りが伝わってくるような情景描写も魅力的でした。 「人を置き去りにしないための、最初の一歩」という言葉が心に残りました。

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