午後七時を過ぎても、会議室の空気は冷めなかった。
佐伯修一は、ノートパソコンを閉じるタイミングを失ったまま、上司の言葉を聞いていた。
「AIを入れるなら、まず数字だ。何人分の工数が削減できるのか。そこを示してくれ」
部長の声は正しい。会社として投資する以上、効果を問うのは当然だった。
しかし、佐伯の胸には別の声も残っていた。
「佐伯さん、AIって、結局ぼくらの仕事を奪うんですか?」
昼間、若手の高橋がぽつりと言った言葉だった。冗談めかして笑っていたが、目は笑っていなかった。
上からは成果を求められる。下からは不安を向けられる。 中間管理職という言葉はよくできている、と佐伯は思った。間に立つのではない。間に挟まれるのだ。
会社を出ると、上大岡の街には初夏の湿った夜風が流れていた。駅へ向かう人の流れに乗りながら、佐伯はスマートフォンを取り出した。妻に「少し遅くなる」とだけ打ち、送信ボタンを押す。
まっすぐ帰る気になれなかった。
ふと、路地の奥に灯る明かりが目に入った。
一炭もんめ。
以前、同僚に「上大岡ならあそこはいいですよ」と勧められた店だった。名前だけは覚えていた。炭の字が、今の自分には妙に引っかかった。
暖簾をくぐると、炭火の香ばしい匂いがふわりと身体を包んだ。
「いらっしゃいませ。おひとりですか?」
若い店員が、忙しそうでありながら、こちらの疲れまで見ているような声で迎えてくれた。
「はい。一人です」
「では、カウンターへどうぞ。外、少し蒸しましたでしょう。まずはゆっくり涼んでいってください」
その一言で、佐伯は少しだけ救われた気がした。
席に着くと、目の前では串が炭火の上で静かに焼かれていた。火は派手に燃え上がらない。ただ、赤く、深く、じっと食材を変えていく。
「お飲み物、どうされますか?」
「日本酒を……おすすめで」
「今日は焼き鳥に合うすっきりしたものがありますよ」
「じゃあ、それを」
運ばれてきた酒をひと口含むと、張りつめていたものが喉の奥でほどけた。
続いて出てきた串焼きは、塩がきいていた。噛むと肉汁が広がり、炭の香りが鼻に抜ける。レバーは驚くほどなめらかで、ハツは歯切れがよかった。
佐伯は思わず、目を閉じた。
今日一日、AI、効率化、削減、導入計画、リスク、社内説明。そんな言葉ばかりに囲まれていた。けれど目の前の一本の串は、何も急かしてこなかった。
焼く人がいて、待つ時間があり、ちょうどいい頃合いがある。
それだけのことが、ひどく贅沢に思えた。
「お仕事帰りですか?」
店員が炊き込みご飯の土鍋を運びながら声をかけた。
「ええ。ちょっと、頭が煮詰まってしまって」
「そういう日は、焼き物がいいですよ。火を見てると、少し落ち着きますから」
佐伯は小さく笑った。
「たしかに。会議室には火がないですからね」
「火があったら大変です」
店員も笑った。
その笑い方がよかった。大げさではなく、こちらの肩の力をそっと抜くような笑い方だった。
佐伯は、ふと尋ねた。
「こういうお店って、忙しいと大変でしょう」
「大変です。でも、お客さんの顔を見ると、だいたい分かるんです。急いでる人、話したい人、静かに飲みたい人」
「分かるものですか」
「全部は分かりません。でも、見ようとはします」
見ようとはします。
その言葉が、佐伯の胸に残った。
AI導入の会議で、彼はずっと説明してきた。 この業務は何分短縮できる。 この資料は自動で作れる。 この問い合わせはチャットボットで対応できる。
だが、現場の人間を「見よう」としていただろうか。
部長の求める数字。若手の抱える不安。ベテラン社員の誇り。事務担当者の小さな困りごと。
それらを一つの資料に押し込めて、「AI活用」と呼んでいなかったか。
締めの手打ち蕎麦をすすると、蕎麦の香りと出汁のやさしさが広がり、今日一日抱えていた重さが少しずつ消えていく気がした。
佐伯は箸を置き、スマートフォンのメモを開いた。
最初に打った言葉は、こうだった。
AIは、人を減らすためではなく、人が人を見る時間を増やすために使う。
続けて、明日の会議で話すことを書いた。
まず、部長には工数削減の数字を出す。ただし、それだけを目的にしない。 次に、若手には「仕事がなくなる」のではなく、「面倒な作業を減らして、考える仕事を増やす」と伝える。 そして、各部署から一人ずつ参加してもらい、不安や困りごとを聞く場を作る。
AI導入プロジェクトではなく、現場を楽にするプロジェクトにする。
「何か、いいこと思いつきました?」
店員が皿を下げながら言った。
「ええ。少しだけ」
「それはよかったです」
「ここの串のおかげです」
「では、串にも伝えておきます」
佐伯は久しぶりに声を出して笑った。
店を出ると、夜の上大岡はまだにぎやかだった。駅へ向かう道の途中で、佐伯はもう一度振り返った。暖簾の奥で、炭火が赤く揺れている気がした。
会社も、きっと同じなのだと思った。
強すぎる火は、人を焦がす。 弱すぎる火では、何も変わらない。 ちょうどいい火加減を探しながら、時間をかけて向き合うしかない。
上司にも、部下にも、そして自分自身にも。
翌朝、佐伯はいつもより少し早く出社した。
会議資料のタイトルを変えた。
「AI業務活用計画」
その下に、小さく副題を入れた。
人を置き去りにしないための、最初の一歩。
窓の外には、朝の光が差していた。
佐伯は深く息を吸い、パソコンを開いた。
