夜の湿った風に、いわしを焼く匂いが混じっていた。
暖簾をくぐると、そこはいつも通りの店だった。 テーブル席が並び、ざわめきはあるのに、どこか落ち着いた空気が流れている。 向かいに座っているのは父親だ。年を取ったはずなのに、背筋は不思議と伸びている。
「混んでるな」 父はそれだけ言って、徳利を手に取った。
いわしの刺身が運ばれてくる。 銀色の肌に、しっとりと脂が浮かんでいる。 天ぷら、南蛮漬け、さんまの蒲焼。 どれも注文を受けてから仕上げたことが分かる、温度と匂いをまとっていた。
「相変わらずだな」 父は刺身を一切れつまみ、ゆっくり噛んだ。 酒を注ぎ合い、言葉少なに盃を重ねる。
仕事は順調だった。 部下にも恵まれ、数字も悪くない。 妻とも穏やかに暮らしている。 誰から見ても、うまくいっている人生だ。
それでも、胸の奥に、ぽっかりとした何かがあった。
「親父さ」 思い切って口を開く。 「全部うまくいってるはずなのに、満たされないんだ」
父は箸を置き、しばらく黙ったまま、料理を見つめていた。 やがて、低い声で言った。
「足りないと思えるうちは、まだ前に進める」 「満ちたと思った瞬間、人は止まる」 「不安があるってことは、生きてる証拠だ」
余計な説明はなかった。 励ましでも、説教でもない。 ただ、それだけだった。
俺は何も言えず、黙って頷いた。
二人で、同じようにいわしを見つめる。 脂が照明を反射して、静かに光っている。 父の横顔と、湯気の向こうの料理。 その光景が、妙に胸に残った。
――その瞬間、目が覚めた。
天井が見える。 耳元に、朝の静けさ。 隣では、妻がまだ眠っている。
夢だったのか。
胸の奥に残っていた、あのぽっかりとした感覚は、少しだけ形を変えていた。 不思議と、悪くない。
スマートフォンを手に取って、無意識に父の名前を探し、そこで指が止まる。 もう、電話をかける相手はいない。
それでも、秋が来たら、あの店に行こうと思った。 父が好きだった席に座り、いわしを頼み、酒を注ぐ。
きっとまた、何も言わずに、 あの言葉だけを残してくれる気がした。
今度も、夢の中で。
