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村田屋
桜木町 野毛いわし料理

夢の中の盃、いわしの季節

by 匿名2026年1月6日

夜の湿った風に、いわしを焼く匂いが混じっていた。

暖簾をくぐると、そこはいつも通りの店だった。 テーブル席が並び、ざわめきはあるのに、どこか落ち着いた空気が流れている。 向かいに座っているのは父親だ。年を取ったはずなのに、背筋は不思議と伸びている。

「混んでるな」 父はそれだけ言って、徳利を手に取った。

いわしの刺身が運ばれてくる。 銀色の肌に、しっとりと脂が浮かんでいる。 天ぷら、南蛮漬け、さんまの蒲焼。 どれも注文を受けてから仕上げたことが分かる、温度と匂いをまとっていた。

「相変わらずだな」 父は刺身を一切れつまみ、ゆっくり噛んだ。 酒を注ぎ合い、言葉少なに盃を重ねる。

仕事は順調だった。 部下にも恵まれ、数字も悪くない。 妻とも穏やかに暮らしている。 誰から見ても、うまくいっている人生だ。

それでも、胸の奥に、ぽっかりとした何かがあった。

「親父さ」 思い切って口を開く。 「全部うまくいってるはずなのに、満たされないんだ」

父は箸を置き、しばらく黙ったまま、料理を見つめていた。 やがて、低い声で言った。

「足りないと思えるうちは、まだ前に進める」 「満ちたと思った瞬間、人は止まる」 「不安があるってことは、生きてる証拠だ」

余計な説明はなかった。 励ましでも、説教でもない。 ただ、それだけだった。

俺は何も言えず、黙って頷いた。

二人で、同じようにいわしを見つめる。 脂が照明を反射して、静かに光っている。 父の横顔と、湯気の向こうの料理。 その光景が、妙に胸に残った。

――その瞬間、目が覚めた。

天井が見える。 耳元に、朝の静けさ。 隣では、妻がまだ眠っている。

夢だったのか。

胸の奥に残っていた、あのぽっかりとした感覚は、少しだけ形を変えていた。 不思議と、悪くない。

スマートフォンを手に取って、無意識に父の名前を探し、そこで指が止まる。 もう、電話をかける相手はいない。

それでも、秋が来たら、あの店に行こうと思った。 父が好きだった席に座り、いわしを頼み、酒を注ぐ。

きっとまた、何も言わずに、 あの言葉だけを残してくれる気がした。

今度も、夢の中で。

この物語に

村田屋

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