年末の空は、葉山にしては少し重たく、海も今日は静かだった。 フロントガラス越しに見る海の色は、冬らしく鈍く、それでも穏やかだった。
助手席に置いた紙袋が、カーブのたびにかすかに音を立てる。 中には、芦兵衛のパン。 美味しくて、安くて、なぜか人を少しだけ前向きにしてくれる、あの店のパンだ。
私は失業して、正直、気持ちも財布も軽くなっていた。 それでも今日は、久しぶりに会う友達の顔を思い浮かべると、 アクセルを踏む足が、ほんの少しだけ軽くなる。
彼は体を壊して、都会を離れ、葉山に移り住んだ。 「療養」と言えば聞こえはいいけれど、 きっと不安も、割り切れない思いも多いはずだ。 連絡は取っていたが、会うのは本当に久しぶりだった。
駐車場に車を停め、紙袋を手に玄関へ向かう。 扉を開けると、潮の匂いと、コーヒーの香りが混ざった空気が流れてくる。
「久しぶり」 その一言が、少し照れくさかった。
テーブルに並べたのは、ミートパイ、チーズフォカッチャ、オレンジタルト、 しらすのピザ、それから甘いタルトをいくつか。 紙袋を開けた瞬間、バターと小麦の匂いがふわっと広がる。
「相変わらず、いい店見つけるな」 彼はそう言って、ミートパイを手に取った。
薄いパイ生地をかじると、ミートソースがじんわり広がる。 「これ、うまいな……」 その一言に、なぜか胸の奥が少しほどけた。
彼が淹れてくれたコーヒーは、驚くほど優しい味だった。 特別な豆じゃないよ、と言いながら、 時間をかけて、丁寧に淹れてくれた一杯。 パンと一緒に口に含むと、不思議と心まで温かくなる。
仕事の話、体の話、これからどうしようかという話。 どれも答えは出ないまま、 でも、重くはならなかった。
「まあ、なんとかなるか」 彼がそう言って笑った時、 私も、同じ気持ちだと気づいた。
窓の外では、冬の海が変わらずそこにあった。 何かが劇的に良くなったわけじゃない。 でも、パンとコーヒーを囲んでいるうちに、 二人とも、ほんの少しだけ元気になっていた。
帰り際、エンジンをかけると、空は来た時より少し明るくなっていた。 紙袋は空になっていたけれど、 心は、来た時より軽かった。
また来よう。 彼にも、この町にも、 そして、自分自身にも。
