有明テニスの森駅から少し歩いた先にある Pacific PICKLE CLUB は、彼にとって数少ない「呼吸ができる場所」になっていた。
会社を売却して、ひとまず人生のゴールのひとつは達成したはずだった。
ゼロから立ち上げた会社。 資金も、人も、何もないところから始めて、気づけば何百人を抱える組織になった。
あの頃は毎日が戦争だった。 社員とぶつかり、怒鳴り、時には笑い合い、 数字が伸びれば全員で喜んだ。
会社は、子供みたいなものだった。
それが、ある日を境にすべて終わった。
正確には、「終わらせた」。
売却の契約書にサインした瞬間、 胸の奥にあった何かが、すっと消えた気がした。
それから一ヶ月。
タワーマンションの高層階で目を覚まし、 仕事に行く必要もなく、 誰からも急かされることもない生活。
自由なはずなのに、 どこか空洞みたいな感覚だけが残っていた。
その日も、朝も昼も抜いたまま、 なんとなく外に出た。
気づけば足は、いつもの場所に向かっている。
Pacific PICKLE CLUB。
入口の横にあるカフェ。 南国みたいなゆるい空気。 平日の昼間は、拍子抜けするほど空いている。
彼はカウンターで、 ソーセージドッグとアイスコーヒーを頼んだ。
「1,700円あればちゃんとしたランチ食べられるな…」
そんなことを思いながらも、 ここではそれすらどうでもよかった。
テラス席に座り、ぼんやりと外を見る。
犬を連れて散歩している人が多い。
その中の一匹、小さな犬が、 突然こちらに駆け寄ってきた。
リードを引かれながらも、 彼の足元にまとわりつく。
「すみません…人懐っこくて」
飼い主が苦笑いしながら謝る。
彼は、しゃがんでその犬の頭を撫でた。
その瞬間、 不意に記憶が流れ込んできた。
会社を立ち上げた日のこと。 資金が底をつきかけた夜。 初めて大きな契約を取った日。
そして——
一緒に会社を始めた、あいつの顔。
途中でぶつかって、別々の道を選んだ。
あの時は、お互いに譲れなかった。 正しいと思っていた。
でも今思えば、 ただ必死だっただけかもしれない。
「今、何してるんだろうな」
ふと、ポケットのスマホを取り出す。
連絡先は、まだ消していなかった。
しばらく画面を見つめたあと、 無意識に発信ボタンを押していた。
呼び出し音。
一回、二回、三回。
「……もしもし?」
懐かしい声だった。
一瞬、言葉が出ない。
「あ、久しぶり」
ぎこちない沈黙のあと、 少しずつ会話が転がり始める。
近況。 どうでもいい話。 昔の失敗談。
気づけば、笑っていた。
「今、何してるの?」
「いや、何もしてないよ」
思わず笑った。
「実はさ」
彼は少しだけ間を置いた。
「アイデアがあるんだよね」
電話の向こうで、 一瞬、空気が変わる。
「…いいじゃん、それ」
その一言で、何かが戻ってきた。
あの頃の感覚。 ゼロから何かを作る、あの熱。
目の前では、 さっきの小さな犬がまた尻尾を振っている。
コーヒーはもうぬるくなっていた。
でも、どうでもよかった。
ぽっかり空いていた穴に、 少しだけ風が通った気がした。
そしてその風は、 どこかへ続いている気がした。
