スマートフォンの通知が止まらない。Slack、チャットワーク、メール。ITベンチャー企業の社長として、40代を迎えた私の日常は、0と1の信号に埋め尽くされていた。
「たまには、電波の届かないような場所に行きたいな」
そんな叶わぬ願望を抱きつつ、商談の帰りにふと降り立ったのは、長津田駅だった。開発が進む駅前だが、少し歩けば落ち着いた空気が流れている。北口を出て数分、ふと目に留まった赤い看板。「臥龍(ガリュウ)」という力強い文字に惹かれ、私は吸い込まれるように店内へと足を踏み入れた。
「いらっしゃいませ!」
元気な声と、中華鍋を振るう小気味よい音が、疲れた鼓膜に心地よく響く。店内は地元の人々だろうか、家族連れや仕事帰りの人々で賑わっていた。私はカウンター席に腰を下ろし、ネクタイを少し緩めた。
メニューを開くと、「手作り点心」の文字が目に飛び込んでくる。効率化、自動化、AI。そんな言葉ばかりを追いかけている今の私にとって、「手作り」という言葉は、強烈な引力を持っていた。
「すいません、この手作り点心と、あと特製チャーシュー、エビの料理を」
注文を終え、温かいお茶を一口啜る。香ばしい香りが鼻孔をくすぐる。 しばらくして運ばれてきたのは、湯気を上げる蒸籠(せいろ)に入った点心だった。皮から手作りだというそれは、一つ一つ微妙に形が違い、それがかえって愛おしい。
一口頬張ると、肉汁と共に優しい旨味が口いっぱいに広がった。 「美味い……」 思わず声が漏れる。冷凍食品やチェーン店の均一化された味ではない、作り手の体温が伝わってくるような味だ。
続いて運ばれてきた特大のエビ料理は、プリプリとした食感がたまらない。特製ダレでじっくり仕込まれたチャーシューは、口の中でほろりと崩れ、濃厚な味わいを残して消えていく。
食事を進めるうちに、張り詰めていた神経が一本一本解れていくのを感じた。 常に最適解を求め、スピード勝負の世界に身を置いているが、本当に人を感動させるものは、こうした時間をかけた「手間」の中にこそあるのかもしれない。そんな当たり前のことに、改めて気づかされる。
「食後にエッグタルトはいかがですか? 本場香港の味ですよ」
店員さんの勧めに、二つ返事で頷いた。 運ばれてきたエッグタルトは、黄金色に輝いていた。サクサクのパイ生地と、濃厚なカスタードの甘み。それは、私の心に残っていた最後の澱(おり)を溶かしてくれるようだった。
店を出ると、夜風が心地よかった。 ポケットの中でスマートフォンが振動したが、今はまだ、画面を見る気にはなれない。 この「アナログ」な余韻を、もう少しだけ楽しんでいたい。
「さて、明日からもまた戦うか」
私は一度だけ大きく深呼吸をすると、駅へと続く道を力強く歩き出した。胃袋と心を満たしてくれた「臥龍」の灯りが、背中を温かく見送ってくれているような気がした。
