母が遺した手帳を見つけたのは、四十九日が過ぎた頃だった。 癌が見つかってから、わずか三ヶ月。二十六歳の私は、母を亡くした。 手帳の最後のページに、見覚えのない住所が書いてあった。 「むさしの森珈琲 六ツ川店」 その下に、母の丸い字でこう添えられていた。 「咲良と行きたかった場所」
母と最後に出かけたのは、いつだっただろう。 東京の会社に就職してから、実家に帰るのは年に二回。帰っても仕事の電話ばかりしていた。母が「たまにはゆっくりお茶でも」と言っても、「忙しいから」と断り続けた。 「お母さん、パンケーキのおいしいお店見つけたの。今度一緒に行こうね」 入院する一週間前、母はそう言った。 「うん、退院したらね」 私はスマートフォンを見ながら適当に返事をした。 それが、最後の約束になった。
母の車は、まだ実家の駐車場にあった。 私はその車に乗り込み、ナビに住所を入れた。母が最後に乗った車。助手席には、母が使っていたひざ掛けがそのまま置いてあった。 六ツ川の住宅街を抜けると、緑に囲まれた建物が見えてきた。 駐車場に車を停めて、ハンドルを握ったまま動けなくなった。 ――お母さん、ここに来たかったんだね。 一人で下見に来たのだろうか。それとも、誰かに聞いて、私と行く日を楽しみにしていたのだろうか。 もっと早く気づいていれば。もっと早く時間を作っていれば。 涙で視界がぼやけた。
店内は、森の中にいるような空間だった。 木漏れ日が窓から差し込み、テーブルの上に柔らかな光の模様を描いている。母が好きそうな、優しい場所だと思った。 席に着いて、メニューを開く。 ふわふわパンケーキの写真を見た瞬間、母の声が聞こえた気がした。 「咲良、これ美味しそうじゃない?」 小さい頃、母はよくホットケーキを焼いてくれた。私の分だけバターを多めに乗せて、蜂蜜をたっぷりかけてくれた。 「お母さんのは関係ないの。咲良が美味しそうに食べてる顔を見るのが好きなの」 そう言って笑う母の顔を、私はずっと忘れていた。
「国産フレッシュいちごのモンブランパンケーキ、お待たせしました」 運ばれてきたパンケーキは、夢みたいにきれいだった。 ふわふわの生地が三段。その上に、モンブランクリームと真っ赤ないちご。母が見たら、きっと目を輝かせただろう。 フォークを入れると、しゅわっと音がした。 一口食べた瞬間、涙が止まらなくなった。 甘い。優しい。温かい。 母が焼いてくれたホットケーキの味がした。 あの頃、私は母の愛情を当たり前だと思っていた。大人になって、その当たり前を忘れてしまっていた。忙しさを言い訳にして、大切なものを後回しにし続けた。 「ごめんね、お母さん」 声に出したら、余計に涙があふれた。 「一緒に来れなくて、ごめんね」
どれくらい泣いていただろう。 ふと顔を上げると、隣のテーブルに小さな女の子とお母さんが座っていた。女の子は五歳くらい。パンケーキを頬張りながら、幸せそうに笑っている。 「ママ、おいしいね!」 「美味しいねえ。また来ようね」 お母さんが女の子の頬についたクリームを拭いてあげている。 その光景が、昔の自分と母に重なった。 私もあんなふうに、母に愛されていた。パンケーキを食べさせてもらって、頬を拭いてもらって、「また来ようね」と言ってもらって。 母は確かに、私を愛してくれていた。 その記憶は、消えない。
パンケーキを食べ終えて、母の手帳を開いた。 最後のページをもう一度見る。「咲良と行きたかった場所」の文字。その下に、小さく書き足されていたことに気づいた。 「咲良が気づいてくれたら嬉しいな。お母さんはいつでも咲良のそばにいるよ」 母は知っていたのだ。自分がいなくなっても、私がこの手帳を見つけることを。そして、一人でここに来ることを。 「お母さん……」 母は最後まで、私のことを考えてくれていた。一人で寂しくないように。前を向けるように。 窓の外を見ると、木々の葉が風に揺れていた。木漏れ日が、きらきらと踊っている。 まるで母が手を振っているみたいだった。
会計を済ませて、駐車場に戻った。 母の車のドアを開ける前に、空を見上げた。 「お母さん、パンケーキ、美味しかったよ」 声に出して言った。 「今度は私が誰かを連れてくるね。お母さんみたいに、大切な人と来るね」 風が吹いて、髪を優しく撫でていった。 エンジンをかける。母のひざ掛けを、助手席から後部座席に移した。 助手席は、いつか誰かを乗せるために空けておこう。母がそうしてくれたように、私も誰かを大切にできる人になろう。 バックミラーに映る自分の顔は、泣き腫らしてひどい有様だった。 でも、少しだけ笑っている自分がいた。
一年後。 私はまた、むさしの森珈琲の駐車場に車を停めた。 助手席には、三歳年下の彼がいる。初めて連れてきた。 「ここ、お母さんが行きたかったお店なんだ」 「そうなんだ。お母さん、きっと喜んでるよ」 彼が優しく笑う。 店内に入ると、あの日と同じ木漏れ日が迎えてくれた。 同じ窓際の席に座る。メニューを開いて、ふわふわパンケーキを指差す。 「これね、すごく美味しいの。お母さんも食べたかったんだと思う」 「じゃあ、二人で食べよう。お母さんの分も」 彼がそう言ってくれた瞬間、また涙がこぼれた。 今度は、悲しい涙じゃなかった。 パンケーキが運ばれてくる。しゅわっと音がする。 「いただきます」 心の中で、もう一人分の声を添える。 ――お母さん、一緒に食べようね。 木漏れ日が、テーブルの上で優しく踊っている。 母は確かに、ここにいる。
