午前中のオフィスは、いつも通り慌ただしかった。
私はHR系の会社に勤めている。 もうすぐ60歳。
若い頃は人材の可能性だの、会社の未来だの、 大きな言葉を口にしていたが、 今の私の仕事の大半は、しつこい営業の対応と細かな雑務だ。
その日も例外ではなかった。
「ぜひ一度だけでもご検討を!」
向かいに座る営業の男は、妙に食い下がってきた。 資料を何度も差し出しながら、同じ説明を繰り返す。
私は腕時計をちらりと見て、 なるべく事務的な声で言った。
「申し訳ないですが、現状は必要ありません」
それでも彼は食い下がる。
「御社にとって必ずメリットが——」
しつこいな、と思った。 正直、少し苛立っていた。
「今日はここまででお願いします」
そう言って席を立った。 男は少し困った顔をしたが、丁寧に頭を下げた。
だが、部屋を出たあと、 なぜか胸の奥に引っかかるものが残った。
どこかで見た顔。
そんな気がする。
いや、そんなはずはない。 営業なんて毎日何人も来る。
そう思い直したが、 その面影だけが頭のどこかに残ったままだった。
⸻
昼休みになり、会社を出た。
ぼんやり歩いていると、 いつもの道の先に、 新横浜ラーメン博物館が見えてきた。
何度も前を通っている場所だ。
だが——
「そういえば、一度も入ったことないな」
いつも混んでいる印象しかない。
入口の看板を見ると、 今日はそこまで並んでいない。
そのとき、ふと思った。
山形の味噌ラーメン、食べたいな。
私の故郷は山形だ。 若い頃はよく食べた。
気がつくと、入場券を買っていた。
館内に入ると、 そこはまるで昭和だった。
夕暮れの街並み。 古い看板。 駄菓子屋。 ラーメン屋の赤提灯。
「よく出来てるな…」
しばらく歩き回って、 龍上海の店の前に並んだ。
辛味噌ラーメンの店だ。
ミニラーメンを注文した。
出てきたラーメンは、 太い縮れ麺に味噌スープ。
赤い辛味噌を溶かすと、 ふわっと香りが立った。
一口すすった。
「ああ…」
懐かしい。
故郷の冬の味だ。
ラーメンを食べ終え、 館内をふらふら歩いていると、 一軒の喫茶店が目に入った。
喫茶&すなっく Kateko
昭和ど真ん中の店構えだった。
ショーケースには クリームソーダ、プリン、パフェ、 そして——
ババロア
思わず声が出た。
「ババロア…?」
懐かしい。
子供の頃、 町の喫茶店で食べた記憶がある。
私は店に入った。
⸻
店内もまた、昭和だった。
赤いソファ。 丸いテーブル。 どこか懐かしいBGM。
カウンターの向こうから 女将のような女性が笑顔で言った。
「いらっしゃい」
席に座ると、 彼女が小さなグラスを置いた。
「今日はね、うち15周年なの」
そう言って差し出したのは、 ショットグラスの甘酒。
しかも——
苺味。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
さらに小皿が置かれた。
「これもどうぞ」
そこにあったのは——
ちんすこう。
なぜか沖縄。
私は思わず笑ってしまった。
甘酒を一口飲む。
ほんのり苺。 そしてほんのり酒。
ちんすこうをかじり、 コーヒーを飲む。
妙に合う。
不思議と落ち着く空間だった。
昭和の空気。
この街並み。
この店。
その瞬間だった。
⸻
あっ。
突然、思い出した。
午前中の営業マン。
あの顔。
あの雰囲気。
頭の中で、 子供の頃の記憶が一気に繋がった。
「しん坊…?」
私はポケットから名刺を取り出した。
斉藤 信一
間違いない。
しん坊だ。
幼馴染。
小学生の頃、 こんな感じの古い街で 毎日遊んでいた。
駄菓子屋。 空き地。 自転車。
全部思い出した。
私はすぐに電話をかけた。
数回の呼び出し音のあと、 電話が繋がった。
「もしもし?」
私は言った。
「……しん坊?」
一瞬沈黙。
そして。
「……え?」
「お前、きみちゃんだよな?」
「だよな!」
「やっぱり!!」
二人で笑った。
「さっきは悪かったな」
「いやいや!」
「全然気づかなかった」
「俺もだよ」
それからしばらく、 昔話になった。
小学校。 秘密基地。 初めてのラーメン屋。
全部、昨日のことみたいだった。
電話を切ったあと、 私はコーヒーをもう一口飲んだ。
レトロな喫茶店。
この空間が、 忘れていた記憶を呼び起こした。
私はふと思った。
もし今日、 ラーメン博物館に入らなかったら。
もしこの喫茶店に入らなかったら。
きっと、 しん坊には気づかなかった。
私は会計を済ませて店を出た。
作られた昭和だけど、その街並みの中で、 少しだけ昔に戻った気がした。
