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吉野家中目黒駅前店
東京 中目黒牛丼チェーン

中目黒、雨、牛丼一杯分の優しさ

by 匿名2026年1月24日

雨は朝から止む気配がなかった。 スマホが震え、表示された店名を見て、彼は少しだけ安心した。

吉野家 中目黒駅前店。 いつもの場所。 いつもの牛丼。

タッチパネルで注文を確認し、 受け取った袋は、しっかりと温かかった。 その温度が、なぜか今日に限って心地よかった。

配達先は、駅から少し離れた古いマンション。 エレベーターはなく、三階まで階段。

——毎日、同じだな。

そう思いながらインターホンを押した。

「はい」

ドアを開けたのは、三十代くらいの女性だった。 部屋の奥から、キーボードを打つ音が微かに聞こえる。

「ウーバーイーツです。吉野家の牛丼になります」

「ありがとうございます。雨の中、すみません」

受け渡しは、それで終わるはずだった。

だが、女性は袋を受け取りながら、 中をちらりと見て言った。

「……まだ、すごく温かいですね」

「はい。急いで持ってきたので」

「そうですよね。  こういうの、当たり前みたいですけど……」

少し言葉を探す間があってから、 彼女は続けた。

「ちゃんと“誰かのごはん”を運んでくれてる感じがして」

彼は、何も言えなかった。

「私、仕事で行き詰まると、  こういう普通の牛丼に、助けられるんです」

一瞬、目が合った。

「だから……もし、  これが“つなぎ”の仕事だとしても、  無駄じゃないと思いますよ」

その一言が、 胸の奥に、静かに沈んだ。

「ありがとうございました」

ドアが閉まり、 廊下に一人残された。

彼は階段を下りながら、 なぜか昔のことを思い出していた。

——料理をやりたかった。 ——人に食べてもらう仕事がしたかった。

現実的じゃない。 才能もない。 そう言い聞かせて、 配達アプリを開いた日々。

外に出ると、雨はまだ降っていた。 だが、さっきまでの雨とは違って見えた。

スマホが、次の配達を知らせる。

彼は画面を見つめ、 深く息を吸ってから、そっと閉じた。

牛丼を運ぶ手は、 人の一日を、確かに支えている。

だったら—— 作る側に戻っても、いいんじゃないか。

中目黒の雨の中で、 彼は初めて、 「夢を目指す」という言葉を、 現実の重さで考えていた。

牛丼はもう手元にない。 でも、 あの温かさだけは、 まだ胸に残っていた。

飲食店短編小説

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