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ハイサイokinawa
横浜 伊勢佐木長者町沖縄料理

「なんくるないさ」のソーキそば

by 匿名2026年1月1日

金曜日の夜7時。香織は伊勢佐木長者町の駅を出て、あてもなく歩いていた。 今日、会社に辞表を出すつもりだった。でも、結局出せなかった。5年間勤めた会社。悪い職場ではない。でも、このまま10年、20年と同じ場所にいる自分が想像できなくなっていた。 「34歳で転職なんて、遅すぎるかな……」 スマホに映る転職サイトの画面を眺めながら歩いていると、ふと目に入った看板があった。 「ハイサイokinawa」 店の前に置かれた小さな黒板には、「忙しい日常に、癒しをお届けします」と書かれていた。

店内に入ると、沖縄の古民家のような温かい空間が広がっていた。木目のテーブル、棚に並ぶ泡盛の瓶、壁に飾られたシーサー。まるで横浜にいることを忘れさせる、どこか懐かしい雰囲気だった。 「いらっしゃいませー!」 明るい声で迎えてくれた店員さんに促され、香織は窓際の席に座った。 メニューを開くと、「12時間煮込んだトロトロのソーキそば」という文字が目に飛び込んできた。 「すみません、これお願いします。あと……」 泡盛のページに目をやったが、今夜は酔いたい気分ではなかった。 「黒糖ジンジャーティー、ありますか?」 「はい、ありますよー。温かいのと冷たいの、どちらにしますか?」 「……温かいので」

しばらくして運ばれてきたソーキそばを見て、香織は思わず声を漏らした。 「わあ……」 透き通ったスープの上に、とろとろに煮込まれた軟骨ソーキ肉がのっている。ひと口スープを啜ると、カツオと豚骨の深い旨味が口の中に広がった。麺をすすり、ソーキ肉を頬張る。12時間煮込まれたという肉は、箸で触れただけでほろりと崩れた。 「……美味しい」 何日ぶりだろう、食事をして「美味しい」と思ったのは。最近はコンビニのおにぎりか、デスクで食べるサンドイッチばかりだった。

食べ終えた頃、隣のテーブルで食事をしていた60代くらいの女性が話しかけてきた。 「ここのソーキそば、最高でしょう? 私、月に2回は来るのよ」 「はい、本当に美味しかったです」 「あなた、なんだか疲れてる顔してるわね。仕事?」 思わず苦笑いしてしまった。 「……実は、転職しようか迷っていて」 女性はにっこり笑った。 「あら、いいじゃない。私ね、40歳で会社辞めて、沖縄に移住したの。3年住んで、向こうで覚えた言葉があるのよ」 「何ですか?」 「なんくるないさ。やることやってれば、なんとかなるって意味。沖縄の人たちって、悩んでも仕方ないことは悩まないのよね。やれることを精一杯やって、あとは流れに任せる」

女性が帰った後、香織は黒糖ジンジャーティーを飲みながら、店内を見渡した。 レジの横に、調味料や乾麺が並んでいた。そばの麺、スープの素、島唐辛子の調味料。手書きのレシピカードも置いてある。 「お店の味をご自宅でも再現できます」 ふと、思った。 転職って、新しい場所で一からやり直すことだと思っていた。でも、今までやってきたことは消えない。5年間で身につけたスキルも、人脈も、全部持っていける。 このお店のように、材料とレシピさえあれば、どこでだって美味しいものは作れる。

香織は帰り際、そばの麺とスープの素を買った。 「今度、友達にも食べさせたいので」 「ありがとうございます。レシピ通りに作れば、お店の味が再現できますよ」 店を出ると、夜風が心地よかった。 スマホを取り出し、転職サイトを開く。今度は画面を眺めるだけじゃない。「応募する」のボタンを、そっと押した。

2ヶ月後――。 香織は新しい会社のデスクで、昼休みにスマホを見ていた。画面には「ハイサイokinawa」の写真。 あの夜買った麺とスープで、週末に自分でソーキそばを作ってみた。お店の味にはかなわなかったけれど、それでも十分美味しかった。 今度の週末、転職を応援してくれた友人を連れて、あの店に行こうと思う。 「なんくるないさ」の精神で一歩を踏み出したこと。そして、あのトロトロのソーキ肉の味を、伝えたいから。

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コメント (2件)

ハイサイおじさん(2026/01/11)

ありがとうございます。

クーミン(2026/01/11)

自分も一歩踏み出す勇気を貰いました。

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