本牧の通りを抜けると、ヤシの木が見えてきた。
七年ぶりだった。
「ラ・オハナ」の扉を開けると、あの頃と変わらない南国の香りが鼻先をくすぐった。水の流れる音、やわらかな陽射し、天井から垂れ下がる緑の葉。三十五歳になった真紀は、窓際のボックス席に腰を下ろした。
格子窓から午後の光が差し込んでいる。白い壁、木目のテーブル、グレーのソファ。何も変わっていない。
「コナコーヒーをお願いします」
注文しながら、向かいの空席を見つめる。
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大学四年の春だった。
「ねえ、一緒に飲もうよ」
真紀がフルーツパフェを注文すると、圭介は当然のようにストローを二本もらった。苺、キウイ、パイナップル、バナナ。色とりどりのフルーツが重なったグラスを、二人で覗き込むように顔を寄せた。
「卒業したらさ、本物のハワイ行こうよ」
圭介がストローをくわえたまま言った。
「いいね。フリフリチキン食べたい」
「俺はガーリックシュリンプ」
「両方頼んで分けようよ」
「それいい」
何でもないことだった。ただ甘いパフェを分け合って、将来の話をして、窓の外の青空を眺めて。それだけのことが、どうしてこんなに眩しいのだろう。
あの日、真紀は圭介の横顔ばかり見ていた。睫毛の長さとか、笑うと目尻に寄る小さな皺とか。この人とずっと一緒にいられると、疑いもなく信じていた。
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運ばれてきたコーヒーから、やわらかな湯気が立ち上る。
真紀はスマートフォンを取り出し、写真フォルダを開いた。データを移し替えるたびに、消せずにいる一枚がある。この店で撮った写真。二人でパフェを挟んで笑っている、あの日の自分たち。
結局、ハワイには行けなかった。
就職先が決まり、互いの生活が忙しくなり、気づけば連絡も途絶えた。最後に会ったのも、この店だった。別れ話をするつもりはなかったのに、なぜかそうなってしまった。あの日もフルーツパフェを頼んだけれど、ストローは一本だけだった。
「本当にいいの?」
圭介の声が、今も耳に残っている。
真紀は何も答えられなかった。答えられないまま、店を出た。振り返らなかった。振り返ったら、きっと走り出してしまうから。
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窓の外では、夕暮れが近づいていた。
隣のテーブルに、若いカップルが座った。女の子がフルーツパフェを頼み、男の子がストローを二本もらっている。二人で顔を寄せ合い、グラスを覗き込む。
真紀は思わず目を逸らした。
あの頃の自分に会えるなら、何を言うだろう。
「迷わないで」と言うだろうか。それとも「それでよかった」と。
コーヒーをひと口含む。ハンドドリップで丁寧に淹れられた一杯は、記憶の中のものより、ずっとまろやかだった。苦いだけだと思っていたのに。
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店を出ると、本牧の空は藍色に染まっていた。
ポケットの中で、スマートフォンが震えた。知らない番号。いや、知っている番号だった。七年間、消せなかった番号。
真紀は足を止め、画面を見つめた。
「もしもし」
出てしまった。考えるより先に、指が動いていた。
「……真紀?」
七年ぶりの声は、少しだけ低くなっていた。でも、笑うときの息づかいは変わらない。
「久しぶり」
「今、どこにいる?」
「ラ・オハナ。出たところ」
電話の向こうで、息を呑む音がした。
「俺も——」
真紀は振り返った。
店の入口に、スマートフォンを耳に当てた男が立っていた。クリーム色のシャツ。少しだけ伸びた髪。あの頃より大人びた顔。でも、目尻の皺は変わらない。
「来てたんだ」
「うん」
「なんで」
「わからない。ただ、来たくなった」
夕風が吹いた。松明の炎が揺れる。
「パフェ、食べる?」
圭介が言った。七年前と同じ声で。
真紀は笑った。泣きそうになりながら、笑った。
「ストロー、二本もらってね」
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あの日に帰ることはできない。
でも、あの日の続きを始めることはできる。
