炭火がパチパチと爆ぜる、店内のざわめきに心地よく溶け込んでいる。「ひもの屋銀次」の暖簾をくぐると、そこはもう昭和の夕暮れ時にタイムスリップしたような空間だ。
カウンターの特等席、焼き場の目の前に陣取るのは、この界隈で工務店を営む寅田(とらだ)さん、通称「トラさん」だ。縞ホッケの開きを突っつきながら、コップ酒をあおる顔が赤い。
「おーい、大将! このホッケ、今日の焼き加減は絶妙だねぇ。恋焦がれた女みてぇに身が充実してやがらぁ」
焼き場担当の若い店員が、鉢巻から汗を垂らしてニカっと笑う。
そんな穏やかな風景に、釣り合わない映像が一つ。トラさんの隣に座って、新しいスーツを着た若者だ。ネクタイを緩めもせず、突き出し小鉢を見つめたまま、ため息をついている。
「……はぁ」
そのため息が、トラさんの敏感なアンテナが捉えた。 トラさんは、じろりと若者を見た。山田洋次映画なら、ここで間違いなくお節介が始まる合図だ。
「おい若いの。ここはため息を吐く場所じゃねえ、煙を吸い込む場所だぞ。どうした、シケた面しやがって。女に振られたか?仕事でドジ踏んだか?」
「え、あ、いえ……その……」 「図星だな。まあ飲みな。大将、こっちに熱燗一本!」
「実は……今日、大事なプレゼンで失敗しまして……上司に『お前には気骨がない』って言われたんです」
「なんだ、そんなことか!気骨がねぇだと?そんなことで、くよくよするな。だがな、ここに来たのが運の尽き……いや、運の開きだ」
トラさんは箸で自分のホッケを指した。 「見ろ、この干物を。太陽浴びて、風に吹かれて、旨味をギュッと閉じ込めてよ。最後は炭火で焼かれて、骨までしゃぶられる。サラリーマンも干物も一緒よ。揉まれて焼かれて、味が出るんだけど」
「はぁ……味が、ですか」
なんだかわからないような、わかるような風だが、トラさんの勢いと、店内の活気に押されて、若者は少しだけ笑った。
「大将! この若造に、アレだ。いつものアレを持ってきてやってくれ!」
「へいよ! 『塩そば』一丁!」
威勢のいい声と共に上がってきたのは、湯気を立てる丼。 透き通った黄金色のスープに、縮れ麺が泳いでいる。 具材はシンプルだが、そこから立ち上がる鶏の優しい香りが、酒で火照った鼻腔をくすぐる。
「ここの『塩そば』はな、ただのラーメンじゃねえんだ」 トラさんは諭すように言った。
若者は言われるがそのまま、スープを一口すった。 その瞬間、彼の目が大きく見えた。 あっさりしているのに、深いコクがある。
「……うまい」
「?その塩気な、君のかいた冷や汗も、悔し涙も、全部中和してくれるんだよ」
若者は夢中で麺をすった。ズルズル、ズルズルと音を立てる。胃袋が温まるそのうち、なんだか胸のつかえまで取れてしまったようだった。最後の一滴までスープを飲み干した若者の額には、うっすらと汗が浮かんでいる。
「ふぅ……。ごちそうさまでした」
その顔は、入店した時とは別人のように晴れやかだった。 トラさんはニヤリと笑い、隣の席で、ここぞとばかり頷いている。
「いい顔になったじゃねえか。気骨がなくなったら、またここに借りに来な。魚の骨なら山ほどあるからよ」
「あ、あの! お名前は?」
「名乗るほどのもんじゃねぇよ。……ただの干物好きのジジイだ」
トラさんは手をひらひらと振って、暖簾の向こうへ消えていた。 残された若者は、空になった塩そばの丼と、静かになった店内を見渡して、小さく呟いた。
「……また、焼かれに来るか」
炭火の爆ぜる、パチンと若者の背中を押したような気がした。
