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鉄板焼Kurosawa
東京 東銀座鉄板焼きレストラン

鉄板の向こう側で

by 匿名2026年1月28日

築地の路地にひっそりと佇む古い建物の前で、 私は一度だけ立ち止まった。 ここが鉄板焼Kurosawaだと知らなければ、 通り過ぎてしまいそうなほど静かな佇まいだった。

重たいドアを開けると、 アンティークの木の匂いと、鉄板が温まる音が迎えてくれる。 天井、ガラス、ドアノブ―― どこか時間が折り重なったような空間だった。

「今日は、ありがとうございます」

向かいに座るのは、取引先の IT戦略推進室・室長代理。 この会社にとって、今期で終わるとは思えないほど 大きなシステム開発を任せてくれていた人だ。

「こちらこそ。最後に、ちゃんと話ができてよかった」

鉄板の上で、黒毛和牛が焼かれる音が弾ける。 その音が、沈黙を優しく埋めてくれた。

ランチコースは、驚くほど丁寧だった。 目の前で仕上げられる一皿一皿に、 無駄な動きも、手抜きもない。

ガーリックライスが鉄板に広げられた瞬間、 香ばしい匂いが立ち上がる。

「……力になれず、申し訳なかった」

室長代理は、ふっと視線を落とした。

「今期で契約が終わる件。 正直、もっとやりようはあったと思ってる」

私は言葉を探している間に、 鉄板の上でカリッとおこげが作られていくのを見ていた。

「実はね」

少し間を置いて、彼は続けた。

「自分も、この会社を辞めるんだ」

箸が止まった。

「……え?」

「行き先は、まだ決まってない。 でも、まあ……なんとかなるだろ」

その言葉は、不思議と軽かった。 諦めでも、強がりでもない。 長い時間を考え抜いた人の声だった。

私は思い出していた。 無理な仕様変更のとき、 社内で板挟みになりながらも 最後までこちらの話を聞いてくれたこと。

数字だけでなく、 人として向き合ってくれたこと。

「正直……」

私はグラスを置いて言った。

「このプロジェクトで、 室長代理に出会えたこと自体が、 自分にとっては財産です」

彼は少しだけ驚いたように笑った。

「そんなふうに言われるとは思わなかったな」

「本当です。 いろいろ助けてもらいました」

ガーリックライスに、 鶏ガラのスープが注がれる。 湯気の向こうで、 彼の表情が柔らいだ。

「……いつか」

私は続けた。

「また一緒に、仕事がしたいです」

しばらく沈黙が流れ、 鉄板の音だけが残った。

「いいね」

彼は静かに頷いた。

「その時は、取引先じゃなくて、 対等な立場かもしれないな」

食後のコーヒーは、二階で出された。 古民家の静けさの中、 契約も、肩書きも、会社名も、 一度すべて置いてきたような時間だった。

玄関の外で、 シェフとスタッフに見送られながら、 私は思った。

契約は終わっても、 この出会いは終わらない。

鉄板の上で丁寧に焼かれたものは、 簡単には冷めない。

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