← ストーリー一覧に戻る
CAFE IMPRESSION
神奈川県座間市カフェ

その一杯が、時間を止めた

by 匿名2026年4月16日10

座間駅の改札を出ても、男の頭の中は仕事で埋まっていた。

スーツの内ポケットで震えるスマートフォン。 次の商談、進行中の案件、部下からの確認。 どれも止める理由がない。止める余裕もない。

それが“当たり前”の人生だった。

年収も、ポジションも、周囲からの評価も、申し分ない。 いわゆるエリート。

その代わりに、手放してきたものがあることも、分かっていた。 ――見ないようにしていただけで。

本来は、ここにいるはずではなかった。

妻と子供と一緒に、妻の実家にいるはずだった。 新しく購入したマンションの保証人の件で訪れたのに、結局、居間でも仕事に追われていた。

電話が鳴る。 会話が途切れる。 妻の表情が曇る。

「少しは家にいてほしい」

何度も言われた言葉。

そのたびに、同じことを返してきた。

――この生活は、俺が働いているからだ。

間違ってはいない。 だが、それだけだったのか。

「ちょっと外出てくる」

そう言って、家を抜け出した。

逃げるように歩き、気づけば座間駅前。

整備された駅前広場。 色とりどりの花。 穏やかな時間。

その一角に、場違いなほど洗練されたカフェがあった。

「CAFE IMPRESSION」

――座間に、こんな店あったか?

違和感を覚えながらも、男は扉を開ける。

店内は静かで、無駄がない。 まるで都心のカフェを切り取ってきたような空間。

メニューを見る。

コーヒーは、中煎りと深煎り。

一瞬、迷う。

いつもなら深煎りだ。 強くて分かりやすい味。仕事にはその方がいい。

だが、その日は違った。

「……中煎りで」

自分でも理由は分からなかった。

テーブルは店のすぐ前。 黒い丸テーブルに、シンプルな椅子。 駅前広場の風景に溶け込んでいる。

やがて運ばれてきた、淹れたてのホットコーヒー。

湯気が、ゆっくりと立ち上る。

ひと口。

――やわらかい。

強さではなく、バランス。 苦味と酸味が静かに重なり、余韻が残る。

思わず、もう一口。

こんな風に“味わう”時間を、自分はどれだけ忘れていたのか。

視線を上げる。

広場の向こうで、小さな女の子が笑っている。 それを見守る親。

何でもない光景。

だが、その何でもなさが、胸に刺さる。

――すぐそこにいるのに、俺は何をしてるんだ。

さっきまで、同じ屋根の下にいたはずの家族。

それなのに、自分はここでコーヒーを飲んでいる。

カップから立ち上る湯気が、ゆっくりと消えていく。

時間と同じように。

戻らない。 どれだけ後悔しても。

男はスマートフォンを取り出す。

画面には、仕事の通知が並ぶ。

ほんの一瞬、指が止まる。

そして――閉じた。

代わりに、妻の番号を押す。

コール音。

「もしもし?」

聞き慣れた声。

「……今、駅前にいる」

少し間が空く。

「……あの子、何してる?」

「おやつ食べ終わって、今ちょっと遊んでる」

その声が、やけに近く感じた。

男は、ゆっくりと息を吐く。

そして、言った。

「……ちょっとさ、こっち来ない?」

「え?」

「近いし……散歩でもしないか」

一瞬の沈黙。

そのあと、少しだけ柔らいだ声。

「……いいよ」

短い返事。

それだけで、十分だった。

男はコーヒーを飲み干す。 少し冷めていたが、そのやわらかさは最後まで残っていた。

座間駅前。 スーパーの横の、少し場違いなオシャレなカフェ。

中煎りのコーヒーと、ゆっくり流れる時間。

それが教えてくれたのは、強さだけじゃなく、 立ち止まることの意味だった。

男は歩き出す。

今度は、逃げるためではなく。

二人を迎えに行くために。

このストーリーを共有

この物語に

コメント (1件)

c
coffee lover(2026/04/23)

座間にこんな素敵なカフェがあるなんて知らなかった!中煎りのコーヒーの描写が美しくて、思わず自分も飲みたくなりました。仕事に追われる毎日の中で、ふと立ち止まる大切さを教えてくれる素敵なお話ですね。今度ぜひ訪ねてみたいです。

ログイン状態を確認中...