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大山地鶏と軍鶏 鶏しん
水道橋居酒屋

鶏の匂いと再起の灯

by 匿名2025年12月23日

水道橋の夜は、少し湿った風と電車の音が混じり合っていた。 JR水道橋駅東口を出て、神保町方面へ数分。ネオンの控えめな看板に灯りがともる店――大山地鶏と軍鶏 鶏しん。 「地鶏の食べ比べができるらしい」 そんな軽い好奇心だけで、彼は暖簾をくぐった。

仕事は正直、あまりうまくいっていない。 ベンチャーの社長という肩書きはあるが、資金繰りも、人の問題も、思うようには進まない。 今日は誰とも会う気になれず、一人で鶏料理を食べに来ただけだった。

店内は思いのほか落ち着いていて、木のカウンター越しに香ばしい匂いが漂う。 お通しをつまみながら、いろどり野菜のサラダ、新鮮な塩ユッケ、フライドポテト。 どれも「鶏が主役」という芯がぶれていない。 砂肝ときのこのアヒージョが運ばれてきた頃、彼はふと厨房の奥に目をやった。

若い外国人の男性が、忙しそうに、しかしどこか楽しそうに動いている。 店員同士に交わされる言葉は、日本語に少し異国のイントネーションが混じる。 ――ミャンマーだろうか。 誰かがそう囁いていたのを、彼は耳にした。

メインの「阿波尾鶏と大山地鶏の食べ比べ」が出てきた。 一口噛むと、肉の弾力も、旨味の広がり方も、確かに違う。 素人の自分でも分かるほどの差に、思わず笑ってしまう。 「ちゃんと伝えようとしてる料理だな」 そう感じた。

ドリンクは驚くほどテンポよく出てくる。 サワー、日本酒、焼酎、カクテル。派手ではないが、実直なラインナップ。 ビールはカールスバーグだけ。 その潔さも、この店らしいと思えた。

半身揚げの大山地鶏は、皮がぱりっと音を立て、中は驚くほど瑞々しい。 最後の鶏のひつまぶしを口に運ぶ頃、彼の心は少し軽くなっていた。

ふと、若いオーナーと目が合う。 忙しい合間に、彼は軽く会釈をしてきた。 その表情には、疲れもあるが、それ以上に「この店をやっている」という誇りがあった。

――国も、言葉も、きっと簡単じゃなかったはずだ。 それでもここで店を構え、地鶏にこだわり、客に楽しんでもらおうとしている。

自分はどうだろう。 うまくいっていないことばかり数えて、立ち止まっていなかったか。

会計を済ませ、店を出る。 夜風はまだ冷たいが、胸の奥に小さな火が灯ったような気がした。 「もう一度、ちゃんとやろう」 そう思わせてくれる店が、確かにここにあった。

食事だけでなく、 人の頑張りが、静かに背中を押してくれる夜だった。

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大山地鶏と軍鶏 鶏しん

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