昼と夜の境目が曖昧になる時間帯というのが、世の中にはある。 野毛のこの店も、そういう時間をうまく使っているらしい。 平日は昼過ぎから夕方までがハッピーアワー。 一日の半分が安くなるというのは、どこか人生の帳尻合わせのようでもあった。
会社の上司と、並んで一階の立ち飲みスペースに立った。 いつもは口数の少ない人だ。 今日も、こちらが何も言わなければ、何も話さないだろう。
まずはハイボール。 生姜の効いた店の名を冠した一杯が、喉を抜けていく。 仕事の不満、取引先への苛立ち。 私はそれを、少しずつ吐き出していた。
上司は、黙って牛すじ煮込みをつついている。 箸の動きはゆっくりで、急かす気配がない。
イカワタフォンデュが運ばれてくる。 濃厚で、逃げ場のない味だ。 酒が進む。言葉も、進む。
「……理不尽ですよね」
そう言ったとき、上司は初めてこちらを見た。
「理不尽は、なくならない」
それだけ言って、そば茶ハイをひと口飲む。
刺身のちょこっと盛り。 この値段でこの厚みか、と感心する。 上司は何も言わないが、箸が止まらない。
店内は賑やかだった。 競馬中継の実況、油のはぜる音、誰かの笑い声。 その中で、上司の声だけが、不思議とよく通った。
「全部、正面から受けなくていい」
それは慰めでも、叱責でもなかった。 事実を、事実として置いた言い方だった。
手羽先を無言でかぶりつく。 長芋のもっちり揚げは、値段の話をするのが野暮なくらい旨い。 私は少し、気が楽になっている自分に気づいた。
二階の座り席に上がることはなかった。 今日は、この距離でよかった。
最後に、もう一杯。 クエン酸サワー。 酸っぱさが、頭を少しだけはっきりさせる。
「……ありがとうございました」
そう言うと、上司は短く頷いた。
「また、飲めばいい」
それだけだった。
外に出ると、動物園通りの看板が少し滲んで見えた。 帰りに、おじいさんのシベリアを買って帰ろう。 そう思えるくらいには、今日はもう、十分だった。
ハッピーアワーは、時間で終わる。 けれど、言葉は、少し遅れて効いてくる。
私はポケットに手を入れ、野毛の夜を歩き出した。
