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ステーキライスの店 センタービーフ 横浜関内本店
横浜伊勢佐木町

雨上がりのステーキボウル

by 匿名2026年6月18日15

朝の八時、スマートフォンが鋭い電子音を鳴らしたとき、佐伯はちょうど淹れたてのコーヒーを口に運ぼうとしていたところだった。

桜木町のワンルームの窓には、梅雨特有の重く灰色の雨が斜めに打ち付けている。テレビの中では、気象予報士が関東地方の傘マークを淡々と読み上げていた。休日の朝の、静かで緩やかな時間が流れるはずだった。 しかし、画面に表示された文字を見た瞬間、佐伯の指先が止まる。派遣先である関内のホテルの宿泊担当者の名だった。通常、この時間に向こうから電話が入ることは、まずない。

「……お休みのところ、朝早くから申し訳ありません」 電話越しの女性担当者の声は努めて事務的だったが、語尾がわずかに震え、息が上がっているのが分かった。

「朝食会場で、異物混入の申し出がありました。お客様のサラダのお皿に、プラスチックのような透明の破片が入っていたと」

佐伯は静かにコーヒーカップをテーブルに置いた。眠気とは違う、冷たく鋭い別種の覚醒が背筋を駆け抜ける。

「状況は分かりました。すぐ伺います。三十分以内に着きます」 通話を切ると、それまで部屋に満ちていた柔らかい朝の輪郭が、急に硬く冷たいものに変わった。クローゼットから急いでスーツを引き出し、シャツの一番上のボタンをきっちり留め、ネクタイの結び目を固く締める。

佐伯は四十二歳。中堅の人材派遣会社で、現場の営業管理を担っている。担当しているこのホテルでは、朝食ビュッフェの配膳や洗い場、客室清掃に至るまで、十数名の派遣スタッフが稼働していた。もし彼らの過失であれば、ホテルの信用問題に直結し、最悪の場合は契約打ち切りにも発展しかねない。

傘を差し、関内方面へ足早に向かう。冷たく湿った空気がスーツにまとわりつき、水たまりを避ける余裕もなく歩くため、革靴の中までじわりと雨水が滲んできた。不快感が足元から這い上がってくるが、今は気にする余裕はなかった。

ホテルの裏口から厨房へ入ると、現場の空気はすでに限界まで張りつめていた。

腕を組み、眉間に深い皺を寄せる料理長。胃が痛むのか、しきりにこめかみを押さえる宿泊部長。そして、壁際に立たされた三名の派遣スタッフ。ステンレスの調理台に囲まれた厨房の奥で、誰もが口数少なく、視線だけが落ち着きなく宙を泳いでいた。

佐伯は小さく深呼吸をし、努めて平坦な声で口を開いた。誰かを責めるような響きを持たせないよう、細心の注意を払って。

「状況の確認をさせてください。いつ、どのタイミングで料理を補充しましたか」 「手袋の交換は、規定通りのタイミングで行われましたか」 「包装材を開けた場所は、指定のスペースでしたか」 一人ずつ、事実だけを掬い上げるように問いかけていく。 その中で、ミャンマー出身の若いスタッフ、ミンさんが、青ざめた顔で何度も頭を下げた。日本に来てまだ二年。真面目で働き者だが、覚えたての敬語が、極度の緊張で時々ひっくり返っている。

「私……トングを、ちゃんと、替えました。規定の、時間で。本当です」 その震える声に対し、料理長がわざとらしく、低く咳払いをした。「どうだか」と言わんばかりの、明らかに責めるような響きがそこにあった。現場の空気がさらに数度下がる。

佐伯は料理長の方へは視線を向けず、ミンさんの怯えた目を真っ直ぐに見て言った。

「大丈夫です、ミンさん。誰もあなたを疑っていません。今はただ、何が起きたのか『原因』を探すための時間です。誰かを責めるための時間じゃありませんから、落ち着いて、覚えていることを教えてください」

その言葉に、ミンさんの肩からわずかに強張りが抜けたのが分かった。彼女の記憶を辿るうち、ひとつの手がかりが浮かび上がる。

全員で該当の器材を確認した結果、サラダ用のトッピングを入れる透明なアクリル容器の蓋に、米粒ほどの欠けた部分が見つかった。混入していた透明片は、その破片である可能性が極めて高かった。前夜、洗い場のシンクの縁に当ててしまった拍子に欠けたものであり、盛り付け時のスタッフの過失ではなかったのだ。

原因が特定されると、刺々しかった空気が急速に萎んでいった。 ホテル側は該当食材をすべて下げ、申し出た客へ改めて丁寧に謝罪と説明を行うことになった。再発防止策として、容器を開封する際の目視確認の手順を一つ加えること、そして少しでも破損した什器は即時交換するというルールを徹底することがその場で決まり、事態はようやく収束した。

すべての事後処理が終わり、時計を見ると昼前になっていた。 帰り際、従業員用通路の廊下で、ミンさんが小走りで佐伯に近づいてきた。何か言いかけて、けれど適当な日本語が見つからないらしく、ただ深く、何度も頭を下げた。

「ミンさん。今日のあなたの説明、とても的確で分かりやすかったですよ。それで十分です。午後からのシフトも、よろしくお願いしますね」 佐伯は穏やかにそれだけ言って、エレベーターのボタンを押した。

扉が静かに閉まる直前、ミンさんが小さく、けれどはっきりとした声で「ありがとうございます」と言ったのが聞こえた。

ホテルの裏口を出ると、雨はまだ降っていたが、朝のような暴力的な勢いはなくなっていた。 張り詰めていた緊張の糸が解け、どっと疲労感が押し寄せてくる。朝から何も口にしていなかった胃が、急に空腹を訴え始めた。 昼食を、どこかでとろう。

いや、今日はただ腹を満たすだけの昼食ではなく、何か、きちんと自分を労えるような、力強いものを食べさせてやりたかった。

そう思って、佐伯は伊勢佐木モールから一本入った濡れた路地を抜け、不二家の裏手に回った。

『ステーキライスの店 センタービーフ 横浜関内本店』。

以前、何かの記事で見て、いつか寄ってみようと思いながら、いつも忙しさに流されて通り過ぎていた店だった。

ドアを開けると、店内はカウンター席のみの、洗練されつつも気取らない空間だった。鉄板の上で肉が焼ける小気味よい音。鼻腔をくすぐる、ガーリックバターの甘く暴力的な匂い。 昼の口開けの時間で、客は佐伯のほかにスーツ姿の男が一人いるだけだった。

メニューを一瞥し、「ステーキボウル」を注文する。店主が短く「はい」とだけ返した。過剰な接客も、余計な言葉もない。疲れた頭には、その静けさが心地よかった。

目の前の鉄板で、赤身肉が一気に焼き上げられていく。表面が色づき、肉汁が弾ける様を見つめているだけで、疲れ切っていた身体が癒やされていくような感覚があった。

やがて、目の前に待望の丼が置かれた。 艶やかに光るガーリックバターライスの上に、美しい焼き目のついたステーキが隙間なく重なっている。立ち上る湯気が、店の暖色系の照明をわずかに揺らしていた。

フォークで肉とご飯をすくい、ひと口頬張る。 その瞬間、肉の圧倒的な旨みと、特製ソースの香ばしさ、バターのコクが口いっぱいに広がった。

「……うまい」 思わず小さく声が漏れた。

朝からクライアントに何度も頭を下げた。現場に急行し、各所に電話をかけた。スタッフの前では「大丈夫です」と気丈に振る舞いながら、本当は、事態が最悪の方向に転がることを自分が一番恐れていた。

それでも、現場から逃げなかった。スタッフを守り、ホテル側ともきちんと筋道を立てて話ができた。

佐伯はもう一口、大きく肉をかき込んだ。咀嚼するたびに、空っぽだった身体の隅々に熱量の高い栄養が染み渡り、疲労が確かな「達成感」へと変わっていくのを感じた。ただ美味しいものを食べているだけなのに、今日という理不尽から始まった一日の意味が、少しだけ報われた気がした。

最後の一粒まで平らげ、冷たい水を飲み干す。 カウンターに会計を置き、「ごちそうさまでした」と店を出ると、雨は完全に上がっていた。

分厚い雲の切れ間から、初夏の力強い陽射しが伊勢佐木町の路地に降り注いでいる。濡れたアスファルトが光を反射し、足元の水たまりには、覗いたばかりの青空が鮮やかに映り込んでいた。

佐伯は手に持っていた傘を軽く振って水滴を落とし、綺麗に畳んだ。

関内のホテルで起きた朝の騒ぎの余韻も、雨が染み込んだ革靴のわずかな不快感も、まだ完全には消えていない。 けれど、胸の中には確かに、あの空と同じような爽やかな晴れ間が広がっていた。

明日もまた、予期せぬトラブルが起きるかもしれない。ミンさんのような誰かが、また青ざめた顔で助けを求めてくるかもしれない。 それでも、今日みたいに、一つずつ向き合って解決していけばいい。 胃袋から湧き上がる確かな活力を感じながら、佐伯は軽く息を吸い込み、光の差す駅へと向かって力強く歩き出した。

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ステーキライスの店 センタービーフ 横浜関内本店

コメント (1件)

美咲(2026/06/19)

朝からクライシス、お昼にはステーキボウル。佐伯さんの一日に完全に引き込まれました。ミンさんを守る姿にグッときたし、雨上がりにステーキをかき込むシーンの解放感が最高でした。センタービーフ、私も行ってみたい!

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