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JUURI (ユーリ)
東京 蒲田立ち飲み、スペイン料理、ワインバー

とある金曜日のメロッソ

by 悟浄2026年7月12日6

金曜日の午後9時過ぎ。オフィスビルの無機質な蛍光灯がぽつりぽつりと消えていく中、27歳の会社員・美咲は深く、そして長い溜息をついてパソコンの電源を落とした。

半年間、チームの誰もが身を粉にして取り組んできた大型プロジェクトが、今日の夕方、ようやく無事に完了したのだ。クライアントからの最終承認のメールを見た瞬間、オフィスには小さな歓声が上がった。しかし、今の美咲を満たしているのは、達成感や安堵感よりも、泥のように重くまとわりつく疲労感だった。連日の残業で肩は石のように硬く張り、ブルーライトを浴び続けた目はひどく乾いている。同僚たちは「打ち上げに行こう」と盛り上がっていたが、愛想笑いでやり過ごし、逃げるように会社を出てきた。

今はただ、誰とも話さず、静かに息を吐き出せる場所が欲しかった。

いつもなら足早に向かう駅への道を、今日はあえて外れてみた。冷たい夜風が火照った頬を撫でていく。色とりどりのタイルが敷かれた歩道を力なく歩いていると、ふと、視界の端に温かなオレンジ色の灯りと、むせ返るほどの豊かな緑が飛び込んできた。

コンクリート打ちっ放しの無骨な柱には、『JUURI』と書かれた小さな四角い看板が掛かっている。入り口は天井まで届く開放的なガラス張りで、店先には背の高いオリーブの木や、銀葉が美しいユーカリ、そして多種多様な観葉植物の鉢植えが所狭しと並び、まるで街角に突然現れた小さな森のようだった。

「こんな時間に開いているお花屋さん……?」

思わず足を止めて見上げると、ガラス越しに見える店内にも天井から吊るされた植物や色鮮やかな花々が飾られており、柱のサインには確かに『FLOWER SHOP』という文字も記されている。しかし、美咲の胃袋をきゅっと掴んで離さなかったのは、そのお洒落な花屋さんと見紛う美しい外観からは想像もつかない、換気扇から漏れ出す香りだった。

ふわりと漂う上質なオリーブオイルの香り、微かなニンニクの香ばしさ、そして、深く煮出された魚介の出汁が入り混じったような、たまらなく食欲をそそる匂い。よく見ると、『FLOWER SHOP』の下には『WINE SHOP』そして『BAR』の文字が並んでいる。

「……お腹、空いてたんだな、私」

自分の乾いた胃の奥が、きゅっと鳴るのを感じた。美咲は吸い込まれるように、植物たちに囲まれたそのガラス扉をそっとスライドさせた。

「いらっしゃいませ。こんばんは」

入り口の緑溢れる開放感とは裏腹に、店内は少し薄暗く、温かみのある照明に照らされていた。カウンターの奥から心地よい声が響く。出迎えてくれたのは、美咲とそう年齢の変わらない、まだ若い男性の店主だった。パリッとしたコックコートではなく、無地の落ち着いた色のTシャツに、洗いざらしのカジュアルなエプロンという気取らない出で立ちだ。植物の瑞々しい香りと、美味しそうな料理の匂いが混ざり合う不思議な空間は、初めて来たはずなのに、実家に帰ってきたような安心感があった。

「お一人ですか? こちらのカウンターへどうぞ」

店主の穏やかで人懐っこい笑顔と、押し付けがましくない自然な案内に、美咲はホッと胸を撫で下ろした。案内された木のカウンター席に腰を下ろすと、椅子がふわりと身体を受け止めてくれる。

「お疲れのようですね。メニュー、後でゆっくりご覧になりますか? もしよろしければ、まずは喉を潤す冷たいワインでもいかがでしょう。お好みに合わせて見繕いますが」

メニューの文字を追う気力すらなかった美咲の心を読んだかのような、適確で優しい提案だった。

「……はい。お願いします。スッキリしたもので」 「かしこまりました」

手際よく抜栓され、美しい曲線を描くグラスに注がれたのは、淡いゴールドに輝くスペインの白ワインだった。 「アルバリーニョというブドウを使ったワインです。青リンゴや柑橘のような爽やかな香りが特徴で、今日のように少しお疲れの日の最初の一杯にはぴったりですよ」

グラスを受け取り、一口含む。キリッとした冷たさと、弾けるような果実の酸味が、乾ききっていた喉と心に染み渡っていく。張り詰めていた神経の糸が、ふっと一本切れたような気がした。無意識に入っていた肩の力が抜け、美咲は小さく息を吐いた。

「お食事も、いくつかお見繕いしましょうか? 重たくないものを少しずつお出ししますよ」 「……はい、お任せします」

最初に出されたのは『オリーブのババロア』だった。 小さな素焼きのココット皿に入った、淡いグリーンの美しい一品。デザートのババロアを想像していた美咲は、一口食べて目を見開いた。滑らかな絹のような舌触りとともに、オリーブの芳醇な香りと塩気、そして微かなコクが口いっぱいに広がる。冷たくて繊細なのに、しっかりとした前菜としての存在感がある。先ほどの白ワインとの相性は抜群で、ひとくち、またひとくちとスプーンが進んだ。

「美味しい……」 思わずこぼれた呟きに、店主は「ありがとうございます」と嬉しそうに目を細めた。

続いてカウンター越しに差し出されたのは『焼き野菜の炭オイル漬け』。 パプリカ、ズッキーニ、そして肉厚な椎茸。色鮮やかな野菜たちが、艶やかなオイルを纏ってキラキラと光っている。口に運ぶと、まずガツンと鼻に抜けるのは香ばしい炭の香りだった。ただ焼いただけではない、オイルに閉じ込められた炭の風味が、疲れた身体の細胞を優しく刺激して目を覚まさせる。噛み締めると、野菜本来の強烈な甘みがジュワッと溢れ出し、オイルのコクと見事に調和した。

「野菜って、こんなに味が濃かったんだ」 コンビニのサラダやゼリー飲料で済ませていたここ数週間の食生活を思い出し、美咲は手作りの温かな料理が持つ力に少し感動すら覚えていた。

「次はお魚にしましょう。『鯵の塩マリネと焼き茄子』です」

白いお皿の余白を活かして美しく盛り付けられた一品。銀色に光る新鮮な鯵の身の下には、ペースト状になった焼き茄子が敷かれている。脂がたっぷりと乗った鯵は、絶妙な塩加減でマリネされており、青魚特有の臭みは全くない。爽やかな酸味が鯵の旨味を引き立て、そこへ焼き茄子のとろけるような甘さと、ほんのりとした焦げ目の苦味が絡み合う。異なる食感と風味の重なり合いが口の中で一つの完成されたハーモニーを生み出し、美咲はあっという間にグラスのワインを空にしてしまった。

「白ワイン、もう少しいかがですか? それともメインに合わせて少し違うものにしましょうか」 「あ、じゃあ……次のお料理に合うものでお願いします」 「畏まりました。では、本日のメインをお持ちしますね」

厨房の奥で、ジューッと何かを炒める心地よい音が響き、やがてあの外で嗅いだ圧倒的な香りが近づいてきた。

「お待たせいたしました。『イカ墨のメロッソ』です。大変熱いのでお気をつけください」

目の前に置かれたのは、縁のある黒く丸い浅鍋に盛られた、艶やかな漆黒の米料理だった。しっとりとスープを含んだ黒い米の表面には、こんがりと焼き色のついたイカの身とゲソが中央に鎮座し、その周囲をぐるりと囲むようにアリオリソースが美しい渦を描いている。

メロッソとは、パエリアよりもスープを多く含ませたスペイン風の雑炊のような料理だという。ふわりと立ち上るイカ墨と魚介の濃厚な香りに引き込まれ、美咲はスプーンを手に取り、その魅力的な一皿をじっと見つめた。

立ち昇る湯気からは、イカ墨の磯の香りと、海老や魚の骨からとったであろう濃厚な出汁の香りが入り混じり、もうお腹は八分目のはずなのに強烈に食欲を刺激される。

スプーンで熱々の真っ黒なご飯を掬い、ふーふーと冷ましてから口へと運ぶ。

「……っ!」

瞬間、魚介の濃厚な旨味の爆発が口の中を支配した。米の一粒一粒が、これでもかというほどに贅沢なスープを限界まで吸い込み、ふっくらと、しかし芯はわずかに残る絶妙な食感に炊き上がっている。具材としてゴロゴロと入っている柔らかいイカの身と、時折アクセントになるニンニクの風味がたまらない。

噛み締めるほどに、温かく、滋味深く、とてつもなく優しい味わいが身体の中心からじんわりと広がっていく。冷え切っていた胃腸が内側から温められ、それに連動するように、カチコチに凍りついていた美咲の心も、ゆっくりと、確実に溶けていくのを感じた。

「美味しいです。本当に、すごく美味しい」

顔を上げると、美咲は自分でも驚くほど自然な笑顔を浮かべていた。

「それは良かったです。……お店に入っていらした時より、ずっといい表情になりましたね」

店主はグラスを丁寧に磨きながら、カウンター越しに優しく微笑みかけてくれた。その気負いのないフラットな優しさが、今の美咲には何よりの処方箋だった。

「今日はいっぱい、頑張った日ですか?」 「はい。……半年がかりの、すごく大きな仕事が今日やっと終わって。本当は真っ直ぐ帰って泥のように眠るつもりだったんですけど」

美咲は、残りのメロッソを愛おしむようにスプーンで掬いながら答えた。

「このお店の匂いに釣られて入って、本当に良かったです。美味しいものを食べて、誰かが作ってくれた温かい料理を味わうって、こんなに元気が出るんですね。……なんだか、明日からまた、新しい気持ちで頑張れそうです」

「そう言っていただけると、料理人冥利に尽きます。またいつでも、ひと息つきたくなったら寄ってくださいね。美味しいワインと、熱々のご飯を用意してお待ちしていますから」

空になった漆黒の鍋と、最後の一滴まで飲み干したワイングラス。 お会計を済ませてガラス扉を開け、花屋と見紛うほどの瑞々しい植物たちの間を抜けると、先ほどと同じ夜風が吹いていた。しかし、頬を撫でるその風はもう冷たくは感じられず、むしろ心地よい涼しさを持って美咲の背中をそっと押してくれた。

見上げれば、ビルの隙間から小さな星が瞬いている。 明日は土曜日。目覚まし時計はかけずに、心ゆくまで眠ろう。そして起きたら、丁寧にコーヒーを淹れよう。

美咲は小さく背伸びをすると、軽やかな足取りで、駅へと続く道を歩き始めた。

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コメント (4件)

たか(2026/07/14)

美味しい料理と店主の優しさで、疲れた心が癒やされていく温かな物語でした。料理の香りや味も伝わり、実際にお店へ行ってみたくなりました。

たか(2026/07/14)

都会の片隅にある温かな隠れ家の雰囲気が、料理の香りや味とともに丁寧に描かれていて、自然と物語に引き込まれました。疲れ切った美咲の心が、美味しい料理と店主のさりげない優しさによって少しずつほぐれていく様子が心地よく、読み終えた後に自分も温かな気持ちになれる作品でした。

たか(2026/07/14)

都会の片隅にある温かな隠れ家の雰囲気が、料理の香りや味とともに丁寧に描かれていて、自然と物語に引き込まれました。疲れ切った美咲の心が、美味しい料理と店主のさりげない優しさによって少しずつほぐれていく様子が心地よく、読み終えた後に自分も温かな気持ちになれる作品でした。

夜更かしのコーヒー(2026/07/12)

金曜の夜の疲れ切りの中で、花屋みたいなお店に吸い込まれる描写にぐっときました。イカ墨のメロッソ、あの香りが画面越しに伝わってくるようで、すごく食べたくなりました。頑張った自分へのご褒美みたいな一杯、大事ですよね。JUURIさん、今度蒲田に行くことがあったら絶対寄りたいです!

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