坂道は、思っていたよりも長かった。
北鎌倉駅を出たときは、ただの散歩の延長のつもりだった。観光地の喧騒を少し外れた住宅街を抜け、ゆるやかな登り坂へ足を向ける。冬の空気は澄んでいて、遠くで犬の鳴き声が聞こえた。道端の家々はどれも静かで、時折、洗濯物が風に揺れている。
「徒歩二十分」
その数字は、平坦な道での話だったのだろう。
坂道はじわじわと脚に効いてくる。息が少し上がり、足取りが重くなる頃、ようやく商店街が見えてきた。今泉台商店街。派手さはないが、どこか人の暮らしの匂いが残る場所だ。
その一角に、小さな店があった。
暖簾はない。
店は通りにそのまま開かれていて、鉄板と職人の手元が、まるで街の一部のように晒されている。甘く香ばしい匂いだけが、店の存在を静かに主張していた。
店頭には手書きの文字。
── ただならぬ陽気おやじ
思わず立ち止まる。
本当に陽気なのだろうか。
向かい側。
通りの真ん中には、木彫りの長椅子。
年季の入った木目。
そこに、数人の客が腰掛けていた。
誰も急いでいない。
誰も苛立っていない。
ただ静かに、焼き上がりを待っている。
その光景に、なぜか少しだけ安心する。
「いらっしゃい!」
声が飛んできた。
鉄板の前に立つ店主。白い帽子に、年季の入った手つき。笑っているようで、どこか職人らしい厳しさも滲んでいる。
「注文してから焼くからね、ちょっと待つよ」
言い方はぶっきらぼうだが、目はどこか楽しげだ。
陽気半分、頑固半分。
なるほど、看板に偽りなしだ。
たい焼きを一つ頼むと、店主は手際よく生地を流し込む。じゅわ、と音がして、甘く香ばしい匂いが広がった。
通りに匂いが溶けていく。
椅子に座る人たちの視線が、自然と鉄板へ集まる。
この店では、待つ時間もまた風景なのだ。
「ここまで歩いてきたの?」
「ええ……坂が思ったより」
「ああ、あの坂ね。みんな甘く見てくるんだよ」
そう言って笑うと、今度は商店街の話が始まる。昔あった店のこと、最近できたパン屋のこと、裏北鎌倉が静かに注目されていること。
話は途切れない。
鉄板の上で、生地が色を変えていく。
待ち時間は十分か十五分か。正確な時間はわからない。ただ、不思議と長くは感じなかった。
やがて、店主がたい焼きを差し出す。
小ぶりな一匹。
羽根つきの薄皮。
かじった瞬間、軽やかな音がした。
パリッ。
その下に、わずかなモチモチ。
さらにその奥に、あんこ。
甘さは控えめで、小豆の味がまっすぐに伝わってくる。豊かな甘みに、ほんの少しの塩気。重たさのない、静かな余韻。
「あんまり甘くないでしょ?」
店主がこちらを見る。
「ええ……小豆の味が」
「そこなんだよ」
満足そうに頷く。
四百円。
確かに安くはない。
駅から遠く、坂を登り、しばらく待つ。
けれどこの店では、そのすべてが最初から織り込まれている気がした。
値段も。
時間も。
距離さえも。
たい焼きというより、
ここまで来た記憶そのものを買っているような感覚。
「うぐいすあんもあるからね」
鉄板に新しい生地を流しながら、店主が言う。
次はそれを試してみようか。
そう思いながら店を離れる。
振り返ると、長椅子にはまた新しい客。
同じように座り、
同じように待ち、
同じ匂いを吸い込んでいる。
坂道を下る足取りは、来たときよりも軽い。
また登るのも、悪くない。
そんな気がした。
