小町通りの喧騒を一歩外れると、時間は急に歩みを緩める。 黒い壁の古い家。扉を開けるたび、私は少しだけ大正時代に近づく。
午後四時を少し回った頃。 自転車が二台、きちんと並んで店の前に止まる。 それが合図だった。
老夫婦は、ほぼ毎日、同じ時間に現れた。 決して派手ではない。 けれど、どこか鎌倉らしい品の良さがあって、背筋がすっと伸びている。
ご主人は先に店に入り、婦人の椅子を引く。 座る時も、立つ時も、さりげなく手を取る。 それは長年の習慣というより、毎回ちゃんと「初めて」をやっているみたいだった。
注文は、いつも同じ。
「アメリカン、ひとつ」 「生ビールを、ひとつ」 「ヴルストを、ひと皿」
たった一品ずつ。 それ以上はいらない、という顔をしていた。
その日の二人は、無邪気な恋人同士だった。 ソーセージを半分に分け合い、 「あなた、泡ついてるわよ」 なんて笑い合う。
別の日は、貴婦人と紳士。 背筋を伸ばし、ジャズに耳を傾け、 必要以上の言葉は交わさない。
またある日は、阿吽の呼吸の熟年夫婦。 目配せだけで会話が終わる。
話している内容は聞こえない。 それでも、時々こちらがクスッとする。 婦人が、くしゃっと顔を崩して笑うからだ。
ご主人は、そのたび少し誇らしげに微笑む。
私と目が合うと、彼は決まってウインクをした。 まるで「いいだろう?」とでも言うように。
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その日も、いつもの時間だった。
いつもの席。 いつものアメリカン。 いつもの生ビール。 いつものヴルスト。
けれど、向かいの椅子は空いていた。
ご主人は遠くを見ていた。 悲しみではない。 懐かしい写真を、心の中で一枚ずつめくるような目だった。
ビールは、ゆっくり減っていった。 ヴルストは、最後まで残された。
その日を境に、彼は来なくなった。
自転車も、二台並ぶことはなくなった。
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今でも、あの席を見ると、思い出す。 くしゃっとした笑顔。 ウインク。 椅子を引く手。
そして、心の中でそっと言う。
「いい時間は、ちゃんと生きた人のところに残るんだな」
飲食店短編小説
