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cafe ミルクホール
神奈川県 鎌倉喫茶店

鎌倉、ゆっくり減るビール

by 匿名2026年1月21日

小町通りの喧騒を一歩外れると、時間は急に歩みを緩める。 黒い壁の古い家。扉を開けるたび、私は少しだけ大正時代に近づく。

午後四時を少し回った頃。 自転車が二台、きちんと並んで店の前に止まる。 それが合図だった。

老夫婦は、ほぼ毎日、同じ時間に現れた。 決して派手ではない。 けれど、どこか鎌倉らしい品の良さがあって、背筋がすっと伸びている。

ご主人は先に店に入り、婦人の椅子を引く。 座る時も、立つ時も、さりげなく手を取る。 それは長年の習慣というより、毎回ちゃんと「初めて」をやっているみたいだった。

注文は、いつも同じ。

「アメリカン、ひとつ」 「生ビールを、ひとつ」 「ヴルストを、ひと皿」

たった一品ずつ。 それ以上はいらない、という顔をしていた。

その日の二人は、無邪気な恋人同士だった。 ソーセージを半分に分け合い、 「あなた、泡ついてるわよ」 なんて笑い合う。

別の日は、貴婦人と紳士。 背筋を伸ばし、ジャズに耳を傾け、 必要以上の言葉は交わさない。

またある日は、阿吽の呼吸の熟年夫婦。 目配せだけで会話が終わる。

話している内容は聞こえない。 それでも、時々こちらがクスッとする。 婦人が、くしゃっと顔を崩して笑うからだ。

ご主人は、そのたび少し誇らしげに微笑む。

私と目が合うと、彼は決まってウインクをした。 まるで「いいだろう?」とでも言うように。

その日も、いつもの時間だった。

いつもの席。 いつものアメリカン。 いつもの生ビール。 いつものヴルスト。

けれど、向かいの椅子は空いていた。

ご主人は遠くを見ていた。 悲しみではない。 懐かしい写真を、心の中で一枚ずつめくるような目だった。

ビールは、ゆっくり減っていった。 ヴルストは、最後まで残された。

その日を境に、彼は来なくなった。

自転車も、二台並ぶことはなくなった。

今でも、あの席を見ると、思い出す。 くしゃっとした笑顔。 ウインク。 椅子を引く手。

そして、心の中でそっと言う。

「いい時間は、ちゃんと生きた人のところに残るんだな」

飲食店短編小説

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コメント (1件)

たまに鎌倉散歩(2026/01/22)

ぐっと胸にきました。

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