横浜駅の喧騒を背にして、紗季は歩幅を少しだけ速めた。約束の時間に遅れたわけじゃない。それでも、胸の奥が落ち着かないのは、今日が「ただの食事」ではないと知っているからだった。
「こっち」
遼が手を振る。仕事帰りのスーツ姿なのに、どこか旅の始まりみたいな顔をしている。紗季は軽く息を整えて並んだ。
歩いて数分。街の輪郭が少しずつほどけて、視界の先に、空と海が混ざるような場所が現れる。窓というより“景色そのもの”を切り取ったような大きなガラスの向こうに、横浜の湾が広がっていた。
店の名は、リストランテ マンジャーレ ウォーターエッジ YOKOHAMA。
案内された席は、夕陽が正面から差し込む位置だった。空が橙から淡い薔薇色へ移っていく。ガラスに映る二人の影が、ゆっくりと同じ速度で長くなる。
「ここ、前から来たかったんだ」
遼は、窓の外を見たまま言った。紗季は「うん」とだけ返した。言葉を選び損ねると、今日という日が壊れてしまいそうだった。
室内は、どこか遠い国のホテルみたいに整っている。モダンで、でも甘さのあるロマンチックさ。椅子の背の曲線や、テーブルの艶が、静かな自信をまとっていた。
前菜が運ばれてくる。季節の香りが、皿の上で形になっている。食材はもちろん、盛り付けの余白まで計算されていて、紗季は思わず息をのんだ。
「目で食べるって、こういうことなんだね」
遼が笑う。紗季も笑い返したはずなのに、喉の奥に小さな棘が残ったままだった。
二皿目、三皿目。イタリアのどこかの地方を旅するみたいに、味が景色を連れてくる。そこへ合わせられるワインが、舌の上でふっと光る。紗季は、グラスの向こうに夕陽を透かした。液面が、燃える金色に変わる。
そのとき、スタッフに促されて、二人は一瞬だけ席を立った。ガラス戸の先に“庭”があると言う。外へ出ると、風がひやりと頬を撫でた。眼前に海が広がり、足元にはプールの水面がある。まるで空中に浮かぶ小さなリゾートだ。
水面は空の色を拾い、いまは淡い藍を映している。紗季は、なぜだかその青が、ここ数ヶ月の自分の沈黙に似ていると思った。
「紗季、最近さ」
遼の声が、風に紛れそうで、紗季は思わず彼の顔を見た。
「俺、ちゃんと聞けてなかったかもしれない。大丈夫って言葉を、信じすぎてた」
胸の棘が、微かに動く。紗季は笑ってごまかそうとしたのに、目の奥が熱くなった。
「大丈夫って言うの、簡単だから」
紗季はそう言って、プールの水面を見た。水は嘘をつかない。揺れるたびに、空の色を正直に変える。
「本当は…怖かった。何が怖いのか、うまく言えないのが、もっと怖かった」
遼は黙って頷き、紗季の指先にそっと触れた。握りしめるのではなく、確かめるように。
店内へ戻ると、景色がさらに変わっていた。空の端に夜が滲み、横浜の光が、ひとつ、またひとつと点り始める。夕陽と夜景が交代していく瞬間は、確かに幻想的で、紗季は「綺麗」と呟くより先に、ただ見入ってしまった。
メインが運ばれてくる。皿の上のソースは筆の跡みたいで、香りは森と海の間にある季節の扉を開ける。
最後のデザートが出たとき、紗季は小さく息を呑んだ。皿の縁に、チョコレートの細い文字が描かれている。
——お祝いの夜に、ふたりの未来を。
遼が、照れたように視線を逸らし、それから静かに紗季を見た。
「今日さ。ここで、ちゃんと決めたくて」
遼はポケットから小さな箱を出す……のではなく、テーブルの上に置いたのは、二枚の紙だった。ひとつは、転職の内定通知。もうひとつは、引っ越しの見取り図。
「急がせる気はない。でも、紗季の怖さに、俺も一緒に立ち会いたい。逃げずに」
紗季は笑ってしまった。指輪の箱じゃないことが可笑しかったのではない。遼が、眩しい約束ではなく、生活の形で未来を差し出したことが、泣きたくなるほど嬉しかった。
「…いいよ」
短い返事だった。だけど、言った瞬間、胸の棘がすっと溶けた。
食後、もう一度、二人は空中庭園へ出た。夜景は完成し、海は闇の中で静かに呼吸している。プールの水面には、街の光が星のように散った。
紗季は遼の腕に額を寄せた。冷たい風が、頬の涙を乾かしていく。
「ねえ、ここってさ」
紗季が言う。
「お祝いの場所なんだって。誕生日とか、記念日とか」
遼は「うん」と答える。
「じゃあ今日も、お祝いだね。怖さを言えたことと、聞いてくれたこと」
遼が笑う。その笑顔が、窓越しに見た夜景よりも、ずっと確かな光に見えた。
空と海と街が一度に見える場所で、紗季は思った。夜は終わりじゃない。色が変わるだけだ。夕陽が夜景へ受け渡すみたいに、今日の不安も、明日の約束へ、静かに移っていく。
そして水上の庭で、二人の未来は、ようやく同じ速度で歩き始めた。
