横浜の海風がかすかに混じる、磯子区岡村。坂道の多いこの街の片隅に、昭和の面影をそのまま残した町中華「栄来軒」があります。かつて90歳の老い船頭が守り抜いたその厨房には今、新しい、けれどどこか懐かしい風が吹いています。
「いらっしゃいませ!」 暖簾をくぐると、威勢のいい、けれど張りのある男性の声が響く。ホールを軽やかに動き回るのは、栄来軒の「顔」ともいえる男性スタッフだ。彼は、姉妹がこの店を継ぐと決めた時、真っ先に「手伝わせてほしい」と名乗り出た、この店の元常連客だった。 厨房に立つのは、姉と妹の二人。かつて先代が立ち続けた「聖域」で、姉は重い鉄鍋を軽々と振り、妹は手際よく仕込みをこなしている。 二人がこの店を継ぐと決めた時、周囲は驚き、そして心配した。 「あの頑固親父の味を、若いお嬢さんたちが?」 「ホールは、一人で大丈夫かい?」 しかし、彼女たちの瞳に迷いはなかった。幼い頃、学校帰りにおじいちゃんが出してくれたあの琥珀色のスープと、温かい湯気の記憶。それを絶やしたくない一心だった。そして、男性スタッフの献身的な支えが、彼女たちの背中を強く押していた。
姉が最もこだわったのは、看板メニューのチャーハンだ。 「おじいちゃんのチャーハンは、ただパラパラなだけじゃない。お米の芯まで熱が通って、ふっくらしているの」 強火の炎が中華鍋の底を舐める。黄金色の卵が米一粒一粒をコーティングし、刻んだチャーシューの脂が熱で弾ける。カン、カン、というリズムの良い金属音が店内に響く。皿に盛られたそれは、まるで宝石箱をひっくり返したような輝きを放っていた。一口食べれば、ラードの香ばしさと共に、先代から受け継いだ秘伝の醤油ダレが鼻を抜ける。
サイドメニューの主役、餃子は妹の担当だ。毎朝、二人で餡を練る。キャベツの水分を絶妙に残し、ニンニクを効かせすぎず、肉の旨みを最大限に引き出す。妹の指先が魔法のように皮をたたみ、美しいひだを作っていく。 鉄板に並べられ、差し水が蒸気となって舞い上がる。焼き上がった餃子の底面は、理想的なきつね色。パリッとした食感の後に広がる肉汁は、彼女たちがこの店に捧げた情熱そのものだった。 そして、横浜・磯子の人々に欠かせないのがサンマー麺だ。姉が強火で炒めるもやし、白菜、豚肉。たっぷりの野菜が香ばしい香りを放ち、妹が手際よく片栗粉でとろみをつける。醤油ベースの熱々スープの上に、その「あん」が蓋をする。 「お待たせしました、熱いから気をつけてくださいね!」 男性スタッフが運んできた丼からは、優しく、けれど力強い湯気が立ち上る。あんが麺に絡みつき、最後の一口まで温度が下がらない。その温かさは、店を訪れる常連客たちの心を、ゆっくりと、確実に解きほぐしていった。彼のきめ細やかな気配りが、その温かさをさらに引き立てる。
かつて先代が座っていたカウンターの端には、今も彼が愛用していた古い算盤が置かれている。「美人姉妹の店」と噂を聞いてやってくる客も多いが、彼らは一度食べれば気づくのだ。ここにあるのは、見せかけではない「本物の継承」であることを。 姉の振る鉄鍋の音、妹の丁寧な仕事、そして男性スタッフの明るい笑顔。磯子区岡村の坂道に、今日も「栄来軒」の香ばしい匂いが漂う。90年の歴史は、今、三人の手によって鮮やかに塗り替えられ、次の100年へと走り出している。
