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The Market SE1
藤沢 江ノ島ジェラート、ピッツァ

水色のフォルクスワーゲンが止まる場所

by 匿名2025年12月21日

江ノ電が路面をかすめる音は、いつ聞いても海の匂いを含んでいる。  その線路を眺めるようにして、小さな店が一軒、腰を落ち着けている。  The Market SE1。

 ジェラートとピッツァの店だと聞いていたが、実際にはそれだけでは足りない。  英国の市場に由来するという名の通り、ここは「何かが集まり、何も語られない場所」でもあった。

 午後のまだ早い時間、ひとりの男が店の前に車を止めた。  古い水色のフォルクスワーゲン。  塩気を帯びた風にさらされてきたのだろう、塗装はところどころくすみ、それが却ってよく似合っている。

 男は六十代半ばに見えた。  背は高くないが、歩き方に無駄がない。  常連らしく、扉を開ける動作にもためらいがなかった。

 彼は何も言わない。  メニューを見ることもない。  ただ席に着き、やがて運ばれてくるものを、当然のように受け取る。

 最初は、豚の背脂を塩漬けにしたピザ――マストゥニコーラ。  五百度の釜で焼かれた生地は、縁だけがふっくらと盛り上がり、中央は驚くほど軽い。  背脂は強さを主張せず、静かに旨味だけを残す。

 男はそれを、黙って食べる。  ナイフとフォークの動きは一定で、急ぐことも、惜しむこともない。

 次に、クラフトビール。  泡が落ち着くのを待ってから、ひと口。  表情は変わらないが、その沈黙が、この店の味を肯定しているようにも見えた。

 食後には、決まってミルクのジェラート。  木次乳業のノンホモ・パスチャライズ牛乳「山地酪農」を使ったそれは、余計な甘さを持たない。  続いて、エスプレッソ。  短く、濃く、余韻だけを残す。

 彼は最後まで、一言も発しない。  食べ終えると、静かに立ち上がり、店を出る。  雑草と帰る――そうとしか言いようのない、淡々とした去り方だった。

 私はその背中を、横目で見ていた。

 派手さも、説明もない。  だが、あの一連の動作には、長い時間をかけて選び取られた「正解」のようなものがあった。

 次に来たときは、  あの男と同じものを頼もう。

 マストゥニコーラ。  クラフトビール。  ミルクのジェラートと、エスプレッソ。

 そう決めた瞬間、  この店が、ただのピザとジェラートの店ではなくなった。

 江ノ電がまた、路面を走り抜けていく。  その音を聞きながら、私はゆっくりと、次の休日のことを考えていた。

この物語に

The Market SE1

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